研究背景

核酸、タンパク質、糖鎖について

生体内には、3つの重要な鎖分子がある。核酸、タンパク質、糖鎖である。この20年間の生体システムの研究の積み重ねで、我々は遺伝子暗号の意味や生体分子の機能の理解が飛躍的に進んだ。遺伝子については、2004年にヒトの遺伝子がほぼ解読された。その結果、ほぼ全ての難病の原因も遺伝子配列の違いで説明できると誰もが思った。しかし、その思惑は違っていた。それは、遺伝子が同じでも、遺伝子へのメチル化などの化学修飾、さらには、遺伝子配列に従って作られるタンパク質への糖鎖等による化学修飾によって、遺伝子やタンパク質の機能に違いがあるということがわかってきたからである。特に、遺伝子、タンパク質への化学修飾は遺伝子で直接制御されていないということがわかってきた。

遺伝子への修飾として代表的なものは、シチジンの5位へのメチル化である。これらはエピジェネティクスという研究分野として広範に研究されている。メチル化などDNAの修飾に異常が起こると、今度はmRNAなどへの転写に変化がおこり、その結果、機能するべきタンパク質そのものができて来なくなる。あるいは細胞の機能変化やがん化にも影響している。

タンパク質が作られる際、DNAの遺伝子配列に相当するmRNAが作られ、そしてその配列に沿ってタンパク質が作られる。そのタンパク質鎖が伸長する過程で、あるいは、全長の伸長が完了後に糖鎖、リン酸、アルキル基、ユビキチン化などによる様々な化学修飾がタンパク質に起こる。タンパク質が発現する際、および発現後に糖鎖、リン酸、アルキル基、ユビキチン(タンパク質)などによるタンパク質修飾がおこることを、すなわち翻訳後修飾(PTM: Post Translational Modification)、翻訳時修飾(CTM:Co-translational modification)という。この修飾のバランスで難病などが発症していることがわかってきた。たとえば、福山型の筋ジストロフィーは、酵素の欠損によりタンパク質に結合している糖鎖およびリピトールリン酸の分子の連結具合がおかしくなるために発症することがわかった。また、核内でDNAを巻き付けているヒストンタンパク質への翻訳後修飾の様式によりDNAからRNAへの転写が制御されることもわかっている。特に、ヒストンタンパク質のユビキチン化(ヒストンタンパク質にタンパク質であるユビキチンが結合する)、メチル化などでDNAのヒストンタンパク質へ巻きつきや解く過程に大きな影響があり、RNA転写が変化する。

したがって、現在、様々な例で、遺伝子の制御によらない糖鎖、リン酸、アルキル基、ユビキチン化などによるタンパク質修飾の機能解明ならびに、病気との関係を調べる研究が広範に展開されている。別の視点で見ると、生体システムが基本としている20種類のアミノ酸ではタンパク質の機能を発現することは不十分なため、翻訳(時)後に特定の位置のアミノ酸の側鎖を化学修飾することで分子の機能を拡張しているように思える。この修飾の部分まで遺伝子で制御すると遺伝子に負荷がかかるために、遺伝子は酵素のみコードし、その酵素によって、さまざまな分子、DNAやタンパク質の修飾を任せたものと思われる。このような基礎研究を充実させることがさまざまな応用研究、病気の原因の解明、創薬へとつながる。

タンパク質の配列が変異し病気が発症する場合は、もととなる遺伝子そのものが変異していると考えられる。一方、翻訳(時)後修飾に異常が生じ発症する例は、その生合成経路の異常が原因と考えられる。糖鎖、リン酸、アルキル基、ユビキチン化などのタンパク質への修飾は、遺伝子で制御されていないと考えられているため、どのような生合成経路によりその修飾パターンが制御されているか調べ理解することは急務である。しかし、糖鎖、リン酸、アルキル基、ユビキチンによる修飾は、遺伝子で制御されていないとはいうものの、それらがタンパク質に結合する位置はほぼ保存されているし、糖鎖の構造(配列)もほぼ保存されている。これらのことから、修飾の位置、構造は、生合成に関与する酵素の基質特異性に依存していると考えられている。そこで、それら過程を詳細に理解することが生体分子の作用機序を理解することにつながる。

一方、全遺伝子のうちタンパク質をコードしているのはわずか2%で、基本となるタンパク質の種類はヒトの場合でも20000種類程度といわれている。しかし、翻訳(時)後修飾によりその種類(多様性)が拡張され機能していると思われている。また、タンパク質に翻訳されないDNAの機能については現在様々な視点で調べられており、おそらく、RNAに転写され、RNA分子が様々な制御を担っているとも考えられている。これは、RNAが、DNAよりも先に地球上に現れたという「RNAワールド」からの視点である。

福山型筋ジストロフィーに見られるように難病と言われるものは、最初はその原因がわからないことが多い。多くの研究者によって、福山型筋ジストロフィーが発症する理由が解明された例のように、難病の理由がわかることで初めて必要な治療法の案がでてくる。遺伝子制御を受けていない糖鎖、リン酸、アルキル基、ユビキチンの結合位置や、構造(配列)に異常が生じると、様々な要素が重なり難病と言われる症状が発症する。これらを調べ原因を特定することは非常に困難であるが急務である。

低分子医薬品

これまでの創薬は、疾患原因となる酵素の作用を低分子酵素阻害剤で止めることで治療することや、がん細胞を直接殺傷する抗がん剤などが主であった。これら薬の候補となる分子の多くは天然物として単離され機能解明後利用されてきた。もともと、これら物質はヒトの体内にないにも拘らず、薬効を発揮する非常に不思議な分子である。これら分子の多くは化学的な方法、すなわち全合成、あるいは天然や細胞培養で似た構造を得たのち、有機化学的な方法で合成され薬として利用されている。すなわち、基礎研究として、生理活性分子の単離、構造決定、そしてその機能評価。さらにはそれらを化学合成することで、その分子が確かにその活性を持つことが確認できる。これら一連の研究は天然物合成化学として展開されている重要な基礎研究である。

抗体医薬

最近の医療には、抗体を使って、直接がん細胞等を殺傷する方法が利用されている。欧米の多くの製薬会社は、この抗体医療を活用している。この抗体のアミノ酸配列は完全にヒト型なので、ヒトに投与してもアレルギーなどの問題を起こさず、標的となるがん細胞などに結合する。その結果、免疫を活性化させ、免疫システムによって標的細胞を殺傷する。また、最近は、抗体に抗がん剤を結合させたものが活用されている。その修飾抗体ががん細胞に結合すると、抗体に結合している抗がん剤ががん細胞に取り込まれ、がんを殺傷する。いずれの場合も抗体には糖鎖が結合しており、この糖鎖がなくなったり、構造変化を生じると抗体の機能が変化することが知られている。したがって、抗体への糖鎖付加は必要不可欠であるが、分子レベルでの糖鎖の機能は明らかにされていない。現在、広範な研究が展開されている。/P>

タンパク質製剤

赤血球を増やす活性をもつエリスロポエチンは、貧血治療薬として世界中で利用されている。このエリスロポエチンに代表されるように、ヒト体内で減少している生理活性ホルモンを薬として補充することで病態を改善できる。また、小型ペプチドを投与し、骨粗鬆症の治療、糖尿病治療薬など様々開発されている。これらタンパク質類はもともとヒト体内にあったもの、あるいは他の生き物から単離され有用な活性が見出されたことで薬として使われてきた。しかし、ヒトに投与する場合は、翻訳後修飾であるヒト型の糖鎖が結合していることが必須である。これは、タンパク質の溶解性、抗原性、安定性など様々な場面で糖鎖が機能しているからである。ヒトの細胞表層は糖鎖が結合したタンパク質や、糖鎖脂質で覆われているがその糖鎖の機能を調べることが現在喫緊の課題となっている。細胞表層、タンパク質上の糖鎖機能がより深く理解できると、難病の原因究明につながる。しかし、糖鎖は、糖と糖の結合様式の違いから天文学的な数の異性体を生じ、どの構造の糖鎖が大事なのか特定が困難である。現在、アメリカ、日本、カナダではこれら研究に莫大な予算をかけ糖鎖研究を展開している。

mRNAワクチン

コロナ禍では、コロナウイルスの表面タンパク質、スパイクタンパクSをコードするmRNAを特殊な脂質のカプセルにいれてワクチンとして我々が受けたことは記憶に新しい。このmRNAワクチンは、ヒトの細胞内にはいり、細胞質にあるリボソームと結合する。そして、ヒトのリボソームによってウイルスのスパイクタンパク質Sが作られ、細胞外へと放出されることで、免疫細胞に認識され抗体の産生が開始される。これにより、いままでのタンパク質を注射により導入していたワクチンと同様に、免疫を活性化し、ワクチン活性を獲得することができた。また、いままでワクチンを作りにくかった感染症に対しても活用され始めている。さらには、このmRNA法を利用して様々な病気、がんなどのワクチンをつくる研究がスタートしている。

遺伝子治療

今後期待されている治療法に遺伝子を換えて行く方法がある。これは、疾患の原因となる部分の遺伝子をCRISP/CAS9という方法でDNA2重鎖を換える方法である。これに、Base editorというDNAの塩基部分を交換していく方法も期待されている。いずれもアメリカでベンチャー企業が立ち上がり、研究が進められている。これに加え、IPS細胞が日本で大きく発展していることは言うまでもない。様々な病態モデルや、組織の再生が大変期待されている。また、CarT (キメラ抗原受容体T細胞療法)も既に実用化され多くの難病の治療に使われている。

糖鎖とタンパク質の関係

このように様々な薬の種類や効果を述べてきたが、薬として使われているタンパク質のほぼ全てに糖鎖が結合している。糖鎖の生合成は、前述のように遺伝子で制御されていないが、タンパク質の表面に結合すると、均一な構造ではないが、ある程度一定様式の構造を示す。そして、糖鎖は、タンパク質の3次構造を安定化させることでタンパク質の生理活性を向上させる重要な機能がある。しかし、糖鎖の存在が必要不可欠であることは明らかであるが、エピジェネティックスと同様に、なぜ、その糖鎖分子が具体的に何をして、生命活動を維持するようにしているか、よくわかっていないことが多い。実際、創薬の場面では、糖鎖の構造が完全に単一の構造ではないが、それら糖鎖がついたタンパク質製剤が使われている。糖鎖構造の違いによる副作用は心配いらないが、その糖鎖機能が明確に理解されていないまま糖タンパク質製剤として利用されているのは基礎研究者の立場からは、早く糖鎖機能を明確にしたいと考えられている。

有機生物化学研究室の研究

そこで、有機生物化学研究室では、化学合成が非常に困難なヒト型糖鎖を鶏卵から単離し、有機化学的な合成研究に活用し、糖鎖機能を解明する研究をおこなってきた。また、それら複雑な糖鎖をもつ糖タンパク質を純粋化学合成で合成することに世界で初めて成功した。化学合成をすることで、分子量が20000を越える分子でも精密に合成することが可能となる。また、天然にはない構造のアミノ酸を導入して生体のもの異常の活性を発現する分子の探索が可能となる。さらには、ホームページで紹介しているように様々な糖タンパク質を化学合成することでその薬効や、糖鎖機能を調べてきた。また、その技術を利用する会社も設立されており、様々な創薬候補が合成され臨床試験に利用されている。さらに、最近では糖鎖がない部分はバクテリアによるタンパク質発現法を利用する方法を開発し、大量合成による創薬への応用も検討している。これら全ての方法は、バイオテクノロジーではできないことで、精密有機合成の手法を活用することで初めてできたことである。有機生物化学研究室では、これら生体分子をより容易に合成できる新規化学反応、方法を開発する研究を展開していく。以上のことに興味を持っていただき、ホームぺージで説明している個別の研究成果を一読いただければ幸いである。