日本での大学院生活

周 淑梅  


 人と人の出会いを縁と言うのであれば、私は阪大の田代研究室と縁があったのかも知れません。私は、日本に来てから二年後、阪大の博士課程へ進学することになりました。日本の大学で高分子の科学を勉強するのは私の夢でした。その夢を実現するために、二年間、日本に慣れることと日本語のマスターに努力してきました。阪大を訪れて初めて出会った先生は、当時、高分子科学専攻長をされておられた蒲池先生でした。先生の親切と笑顔が私の緊張感を少しは緩和してくれましたが、それでも極度に緊張していました。蒲池先生は私に、「何を勉強したいですか?」とお聞きになられ、私は直ちに、「構造を勉強したいです」と答えました。その一言が、結果的に、高分子構造科学を通じて、私が田代先生や田代研究室の人々と縁を結ぶことにつながったわけです。蒲池先生のご紹介で田代先生とはじめて出会い、日本での大学院生活がスタートすることになりました。

 博士課程に入るためには、中国の修士課程で行った研究内容を皆の前で発表することが必要でした。この発表の練習のために、田代先生はご多忙にもかかわらず、私の日本語のチェックをも兼ねて色々とご指導して下さいました。先生のご親切、熱心さと学問に対する真剣な態度が、私に深い印象を残すとともに、それ以後の研究室での四年間の研究と勉強の充実した生活を過ごす上での励みになりました。先生への感激の気持ちを言葉で表現することはできません。

 こうして大学院生としての生活が始まったのですが、留学生の私にとって、最も難しいのは言葉、特に授業の時の言葉でした。アメリカに留学した中国のクラスメートが、アメリカからの手紙の中で、「アメリカに行った初めの頃は、授業内容が全然わからなかった」と書いていましたが、その意味が、こうして実際に授業を受ける時点になって自分にもつくづく実感できました。授業は、もちろん母国語の学生を対象として、速いスピードとスラングとでもって、どんどん進められていきます。中でも私を困らせたのは敬語でした。日本語には敬語があり、授業でも学会でも頻繁に敬語が飛び交います。たとえ日常会話にある程度慣れてきた留学生にとっても、敬語は、まるで別世界の言葉のように感じられます。ですから授業内容の全部をキャッチすることは非常に困難でした。私は、いつも授業が終わってから研究室の学生さんのノートを借りて、教科書を読みながら懸命に勉強しました。

 研究を進めるにあたって私が驚いたことは、実験で使う装置が私にとってはほとんど初めてのものばかりであったことです。中国にいた頃、高分子の構造についての勉強は教科書からの知識だけで、FT-IR、Raman、X線、DSCなどの装置も見学の時に一回見ただけでした。ましてや装置を使ったりデータの解析をしたり、という経験は全くありませんでした。田代先生は、装置の原理から実際の装置の中身まで、装置を直接前にして教えて下さいました。意味のわからないときは、漢字で書いたり英語で書いたりして、理解ができるまで繰り返し教えて下さいました。実験を失敗したときには大いに励まして下さり、そのお言葉が私に勇気を与え、困難に打ち勝つことを可能にしてくれました。私自身の努力だけでは、決して博士の学位をとることができなかったことは間違いありません。阪大大学院での四年間の学生生活についての思い出は、私の一生の宝として心に残ると思います。

 最後に、この機会をお借りして、田代先生ならびに研究室の方々、いつもご親切にお声をかけていただきました森島先生、学位論文審査をして下さいました則末先生、足立先生、佐藤先生、そして私の留学中に暖かいご支援を下さった数多くの人々にお礼を申し上げます。学位取得にあたり留学生支援の奨学金を下さいました国際高分子交流基金に深く感謝いたします。


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