複雑系の科学と平和学

Fig. 1 Fig. 1. Evolutionary self-organization in a primitive life.

生物は自己組織化された階層的非平衡複雑系であると言えますが,生態系や人間社会も同類のシステムであると考えられます. 例えば Fig. 1 は,原始生命が進化してゆく過程を模式的に表したものです. はじめに,ある閉じられた領域に雑多な蛋白質が濃縮されます(A). 自己触媒による複製を繰り返すうちに,蛋白質の間に相互に触媒として働く連関が生まれ,その相互作用によって,蛋白質自身もまた,相互作用依存型に変異してゆきます(B). 細胞内のネットワークが形成されてくると,そのネットワークに有効に取り込まれなかった蛋白質は細胞から排除されることも起こってくるであろうと考えられます(C). 面白いことに,蛋白質を人間に置き換えるならば,この図式は人間社会そのものとしても理解できることが分かります.

人間社会における社会と個人の葛藤・矛盾の問題は,近代科学誕生以前から今日まで哲学における中心的なテーマであり続けました. したがって,むしろこれまでに蓄積された人間社会についてのたくさんの思索に,始まったばかりの複雑系科学の研究指針となるべきことが多々発見されると期待されます. 例えば,K. Marx が,「社会を抽象物としてふたたび個人に対立させることは,とくに避けるべきである.個人は社会的存在である. それゆえに,彼のどんな生活表明も,社会的生活の表明であり確証である」(1844年の経済学哲学手稿・第3手稿)と述べているのは,近代的個人は社会的関係の中からこそ生まれてきたことを指摘するものであり,システムの発展が要素の内部構造・機能も進化させることに気づかせます.

Textbook 大阪大学国際教養科目テキスト, 木戸衛一・長野八久編著 『平和の探求』(部落解放・人権研究所, 2008年)

長野は最近,人文・社会科学の友人たちとともに「平和学」という学問にも取り組んでいます. 平和学とは,一言で言ってしまえば,個人と社会の矛盾を克服し,すべての人間の人間的生存を実現することをめざす実践的学問で, J. Galtung が代表的な研究者として知られています. 長野は,人間を含むヒト上科のサルは,アリやハチなどの真性社会をつくる動物と違って,個別認識による社会を形成し,その複雑な社会が人間の社会的知能の進化を促し,その結果として利他性,さらにヒューマニズムが生まれたことを主張しています. したがって長野は,最近流行の取引ゲーム実験が利他性も結局罰によって生まれるとしていることも批判しています. 複雑系の研究においても,ネットワーク(社会)の性質に注目するあまり,要素(個人)の内部構造・機能の発展を見落としてはならないのです. 平和学は複雑系科学のもっとも実践的展開であると言えます. 長野らは,大阪大学における平和学の教科書として今年3月,『平和の探求 暴力のない世界をめざして』を出版しました. どうぞ,書店で手に取ってみてください. 鷲田清一大阪大学総長は大学院学位記授与式式辞で,「社会のいかなる困難な問題もみずからの問題として受けとめるそのような視界のなかに,みずからの専門研究を置いておいていただきたい」(2008年9月25日)と述べています. たとえ基礎科学に身を置くものであっても,そうありたいと思います.

(長野 八久)

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