水を含む有機超伝導体の電子熱容量

分子性化合物からなる伝導体は,無機の金属間化合物や合金などと比較すると極めて柔らかい結晶格子の中で超伝導が発現しています. そのような結晶格子中で,比較的低い密度に存在する電子が相互作用して超伝導対を形成していると考えられています. 本研究では,分子性超伝導体を多く形成するBEDT-TTFドナーからなる高い転移温度をもつ2次元超伝導体のなかでκ-(BEDT-TTF)2 Ag(CN)2 H2Oという絶縁体層の中に水分子を含む超伝導体に注目し,熱力学的な実験を行いました. この物質はκ 型の分子配列をとると同時に,アニオンであるAg(CN)2が水分子の水素結合を利用してネットワークを形成することが知られています.

Fig. 1 Fig. 1. (Click to enlarge.) Temperature dependence of heat capacity of κ-(BEDT-TTF)2 Ag(CN)2 H2O in a CpT −1 vs T 2 plot. A thermal anomaly related to the superconductive transition is observed around 5 K.

Fig. 2 Fig. 2. (Click to enlarge.) CpT −1 vs T 2 plot of κ-(BEDT-TTF)2 Ag(CN)2 H2O obtained under 0 T and under magnetic fields. The normal state electronic heat capacity coefficient γ and residual electronic heat capacity coefficient γ* are estimated by a linear extrapolation of the fitting lines.

低温領域での熱容量の温度依存性を示したのがFig. 1です. 水を含みながら化合物は安定であり,黒色の板状結晶が形成されています. 水分量の経時変化も殆どなく,結晶の状態で緩和型熱容量測定システムの試料ステージの搭載が可能です. 一般に金属状態にある物質の低温での熱容量は温度に比例する電子熱容量と,温度の3乗に比例するフォノンの熱容量の和であらわすことができます. 低温でFig. 2のようなCpT −1 vs T 2のプロットをすると絶対零度に外挿した縦軸の切片が電子熱容量係数γ,傾きβ が格子振動を特徴づけるDebye温度を与えます. 超伝導に関わる相転移が5 Kに起こっていることがわかります. 外部磁場が0 T,0.5 T,および8 Tの場合を示していますが,磁場の印加によって超伝導相転移による熱異常は抑制され,常伝導状態へと変化しそのときの電子熱容量係数γ は30 mJ K−2 mol−1となり一連のκ 型超伝導体と比較的近い値となっています.

水を包含したアニオン層の存在はこの2次元の強相関超伝導を引き起こすドナー層への体積効果として働きます. この物質で見られる非常に面白い側面は格子熱容量が試料の冷やし方によって異なる点が挙げられます. 電子物性の冷却速度による変化は,分子性化合物の中でいくつか知られていますが,この化合物では,そのような構造的な乱れの効果がより顕著にあらわれます. Fig. 2の破線で冷却速度を10 K min−1で冷やした試料の熱容量の値を示しています. CpT −1 vs T 2のプロットであるためその傾きβ は先にもふれたようにT 3に比例するDebyeモデルの低温極限の熱容量に相当しますが,急冷した試料では水素結合ネットワークの乱れにより低エネルギーでのフォノンに大きく寄与していることがわかります. 層内で水素結合系のつくる緩やかなネットワーク構造は,変容しやすい格子構造をつくりフォノン構造に大きな影響を与えていると思われます.

超伝導状態中での0 Tのデータの低温側を見てみるとこの状態でもCpT −1の0 Kへの外挿値が5 mJ K−2 mol−1という大きな値になることがわかります. このように超伝導状態中で観測される電子熱容量係数を特にγ* と呼びます. 一般に超伝導状態になると,電子がspin singletの対をつくり安定化し,Fermi面付近にエネルギーギャップが形成されます. それを反映して,熱力学量はギャップ構造がある場合に特徴的な活性化型の振る舞いになり,電子熱容量も比較的高い温度から急速にゼロに向かって減衰することになります. このように超伝導状態中にあたかも金属状態のような電子熱容量の寄与が残ることはこの超伝導が従来型のBCS理論で記述される超伝導でない可能性が高いことを意味しています. 電子対の波動関数がd波のようなノードをもつような場合には,エネルギーギャップがk 空間で異方的になり,点状,あるいは線状のノードが存在し,その周辺付近で有限の電子状態密度が誘起されます. 本物質のγ*項はこのようなd波の性質によるものであることが考えられます. 超伝導転移のバルク性や転移の鋭い純良結晶の測定でも殆ど試料依存性がなく同様の結果が得られています. d波超伝導体が形成されているとは言え全体の電子の約1/6もが超伝導にならずに常伝導状態として混在していることを意味しており,バンド的な状態と超伝導状態の競合関係が現れているように思います. Tcは5 K程度でκ-(BEDT-TTF)2 Cu(NCS)2κ-(BEDT-TTF)2 Cu[N(CN)2]Brより低いですが,κ 相の中でも非常に興味深いところに位置した物質のように思われます.

(中澤康浩)

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