メチル基の部分重水素化で出現する
ショットキー型熱容量
— 2,6‐ジクロロトルエンの場合 —

メチル基をもつ化合物からなる結晶で,プロトンが示す量子性と,その重水素置換によって誘起される相転移についてはこれまでも紹介してきました(本レポート 2006年 (No. 27), 研究紹介7;2007年 (No. 28), 研究紹介14, 15). 今回は対象として2,6‐ジクロロトルエンを取り上げました. 興味はこれまでと同じで「回転トンネル現象を示すメチル基のプロトンを逐次重水素に置き換えたとき,その結晶の熱物性に,とりわけ極低温でどのような変化が見られるか?」という点にあります.

Fig. 1 Fig. 1. (Click to enlarge.) Low temperature heat capacity of 2,6-dichrolotoluenes. The partially deuterated compounds (–CH2D and –CHD2) showed a broad anomaly in heat capacity, whereas the fully protonated and fully deuterated compounds showed no anomaly.

Fig. 2 Fig. 2. (Click to enlarge.) Excess heat capacity of partially deuterated 2,6-dichorolotoluenes (–CH2D and –CHD2). Solid curves indicate the Schottky type heat capacities; the energy schemes of the models are shown schematically in the figure.

Fig. 3 Fig. 3. (Click to enlarge.) Excess entropy of partially deuterated 2,6-dichorolotoluenes (–CH2D and –CHD2). Dashed line indicates the value of ΔS = Rln3 (= 9.13 J K−1 mol−1).

熱容量測定は 5 – 310 K の温度域で断熱型熱量計を用いて,0.35 – 20 K の温度域で緩和型熱量計(PPMS)を用いて行いました. 得られた熱容量(40 K 以下)を Fig. 1 に示します. 2つの部分重水素化物( –CH2D, –CHD2 )についてこぶ状の熱容量異常が観測されました. 一方,軽水素化物( –CH3 )と全重水素化物( –CD3 )では何の異常も観測されませんでした. 酢酸リチウム2水和物や4‐メチルピリジンでは,重水素置換によって(全重水素化物も含め)軽水素化物には存在しなかった相転移が鋭い熱容量ピークを伴って出現したのでした. しかし,2,6‐ジクロロトルエンでは異なる形で重水素置換効果が見られたわけです.

Fig. 2 に2つの部分重水素化合物の過剰熱容量を示します. 格子振動の寄与については, –CH3 化合物と –CD3 化合物のデータをもとに見積りました. –CH2D 化合物の過剰熱容量は2つのピークを示し, –CHD2 化合物は1つのピークを示しています. 興味深いことに,いずれも単純な3準位系(各1重縮退)のショットキーモデルでフィットできました. 2つの励起準位の基底準位からのエネルギーは, –CH2D 化合物では 267 μeV と 2950 μeV, –CHD2 化合物では 2400 μeV と 2700 μeV と算出されました. すなわち,酢酸リチウム2水和物や4‐メチルピリジンの場合と違って,エネルギー励起というかたちで部分重水素置換効果が現れているといえます. 因みに,中性子散乱実験によって, –CH3 化合物のメチル基回転基底状態のトンネル分裂は 1.56 μeV と観測されており,これらの異常はトンネル励起とは異質のものであることは明らかです.

Fig. 3 に –CH2D 化合物と –CHD2 化合物の過剰エントロピーを 0 K からの累積エントロピーとしてプロットしました. 過剰エントロピーは,いずれの化合物でも十分高い温度では Rln3 (= 9.13 J K−1 mol−1) に近い値を示しています. 配向変化(回転)によっても全部等価な –CH3 や –CD3 と比べ,メチル基を部分重水素化すると本来もっていた3回対称が失われ,統計力学的に Rln3 の余分のエントロピーが持ち込まれます. そこで,実測の過剰エントロピーがこの値とよい一致を示しているということは,メチル基の配向が極低温で完全に秩序化したことを意味しています.

この熱容量異常がなぜこの温度域に現れるかは,結晶中に置かれたメチル基の周りの環境を反映しているはずで,これは大変興味深いところです. これら3準位を,メチル基が結晶中でとる3配向の基底状態に対応するものとすれば,その間の遷移メカニズムも興味深いところです. ショットキーモデルでは,各準位の占有率が常にボルツマン分布を満たしていることが前提であり,結晶中でかなりの回転障壁を感じているメチル基が,このような極低温で何事もなかったかのように単なる熱励起現象として振る舞っているわけです. 今後,結晶構造や分光学的な知見と併せて,これらのメカニズムの解明を進める必要があります. 相転移が誘起され協同現象が見られる場合と違って,この種の現象はごく一般的に起こりうると考えられ,多数の研究例によって結晶の構造と熱力学的性質を関連づけた理解が得られるものと思われます.

本研究に用いた2,6‐ジクロロトルエンの重水素化物は,本学理学研究科化学専攻で作成されたものです.

(鈴木 晴,稲葉 章)

発 表

鈴木 晴,稲葉 章,松尾 由紀子,大石 徹,村田 道雄,第44回熱測定討論会(つくば),P57 (2008).

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