研究紹介 2

メチル基の部分重水素化で現れる過剰熱容量
— 2,6−ジブロモトルエンの場合 —

われわれはこれまで,メチル基を有する様々な化合物について,熱容量に現れるメチル基の重水素置換効果を調べてきました.この重水素化はメチル基の回転運動に特に大きな影響を及ぼします.まず,重水素化によりメチル基の慣性モーメントが大きくなりますから,いろいろな局面で量子力学的描像(トンネル回転など)から古典的描像への移行が見られます.劇的な例として,重水素化により結晶に相転移が出現する場合があります.一方,メチル基を部分的に重水素化した場合には別の寄与も現れます.それは,メチル基の3回対称を壊すことによるものです.古典統計力学的に考えれば,–CH2Dや–CHD2は回転対称数 σ = 1であり, σ = 3の–CH3や–CD3と比べて(十分高温では) ΔS = R ln 3 (= 9.13 J K−1 mol−1) だけ大きなエントロピーをもつことになります.部分重水素化されたメチル基がもつこの余分のエントロピーは,2,6–ジクロロトルエンでは低温での過剰熱容量として現れることが分かっています.また,この過剰熱容量を3準位系のエネルギー準位で説明することができます(本レポートNo. 29, 研究紹介15).

Fig. 1 Fig. 1. Low temperature heat capacities of 2,6–dibromotoluenes. The partially deuterated compounds (–CH2D and –CHD2) showed a broad anomaly.

Fig. 2 Fig. 2. Excess heat capacities of partially deuterated 2,6–dibromotoluenes, –CH2D and –CHD2. Solid curves stand for the Schottky-type heat capacities obtained by the energy scheme shown.

Fig. 3 Fig. 3. Excess entropies of partially deuterated 2,6–dibromotoluenes, –CH2D and –CHD2. Dashed line indicates the value of ΔS = R ln 3 (= 9.13 J K−1 mol−1).

今回は,メチル基を2,6位で挟んでいるハロゲンを換えた2,6–ジブロモトルエンについて熱容量測定を行いました.この物質も2,6–ジクロロトルエンと同様,結晶構造が分かっていません.そこで本研究は,熱力学的な観点から構造に関わる情報を得ようという試みになります.Br基はCl基よりサイズが大きいために,ちょっと考えると分子内で隣接するメチル基の回転運動を妨げると思いがちですが,むしろ実際の結晶中では隣接分子からメチル基を守る役目をすることもあり(その場合が多く)メチル基に対する影響については一概に言えないことが分かっています.

熱容量測定は,5 – 300 Kの温度域では断熱型熱量計を用い,0.35 – 20 Kの温度域では緩和型熱量計(PPMS)を用いて行いました.測定に用いた試料は,いずれも本学理学研究科化学専攻で合成されたものです.

得られた熱容量(20 K以下)をFig. 1に示します.2,6–ジクロロトルエンと同様,–CH2Dと–CHD2化合物でこぶ状の熱容量異常が観測されました.この熱容量の過剰分をFig. 2に,過剰エントロピーをFig. 3に示します.過剰エントロピーが十分高温で期待される値 ( ΔS = R ln 3) に近づく様子が見られます.一見して面白いのは,2,6–ジブロモトルエンで過剰熱容量のこぶが1個(–CH2Dの場合)と2個(–CHD2の場合)であった情況が,2,6–ジクロロトルエンでは逆転していることです.得られた過剰熱容量に対して,3準位系によるショットキーモデルでの再現を試みたところ,–CHD2化合物の低温域を除いて,比較的よくフィットできました.–CHD2の低温側のピークはショットキーモデルで予想されるよりもブロードになっており,エネルギー準位に分布がある可能性が示唆されます.Fig. 2には,フィットしたショットキー熱容量(実線)と,対応するエネルギー準位の模式図(右上)を示しています.

当然のことながら,メチル基が感じるポテンシャルは分子構造(分子内の寄与)だけでなく,結晶構造を強く反映したものとなります.したがって,別の相では違った熱異常が観測されるはずです.また,不純物によって影響を受ける可能性もあります.部分重水素化したメチル基をプローブとするこのような手法は,試料の調製さえ容易であれば,構造に関する知見を得るための熱力学的なアプローチとして重要になるかもしれません.

(吉田 康,鈴木 晴,稲葉 章)

発 表

吉田 康,鈴木 晴,稲葉 章,山本 正哉,大石 徹,村田 道雄,第45回熱測定討論会
(八王子),1A1730(2009).

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