研究紹介 1

メチル基の部分重水素化で現れる過剰熱容量
— トルエンの場合 —

メチル基のプロトンの一部(1個または2個)を重水素置換すると,その化合物の固体に低温で過剰熱容量が観測されることがあります.本レポートでも,これまで3種の試料についてこのような過剰熱容量を報告してきました(No. 27,研究紹介7;No. 28,研究紹介14, 15;No. 29,研究紹介15).それには相転移を伴う場合(酢酸リチウム2水和物,4–メチルピリジン)と3準位系のショットキー型熱容量として観測される場合(2,6–ジクロロトルエン)があります.その過剰エントロピーの大きさから,いずれの場合も起源はメチル基の配向秩序化にあると考えています.例えば2,6–ジクロロトルエンでは,–CH2Dおよび–CHD2化合物にのみショットキー型過剰熱容量が見られ,メチル基が本来もっていた3回対称が破れることに起因する過剰エントロピー(ΔS = R ln 3)が観測されたのでした.このことは,部分重水素化メチル基を有する全ての化合物に普遍的なものと考えられます.ここで,熱容量の解析から求めた3準位系のエネルギー準位は,部分重水素化メチル基が結晶中で行う回転的振動の3種の基底準位に対応しています.また,その準位の様式はメチル基が結晶中で感じているポテンシャルを強く反映しているはずです.そこで,メチル基が置かれた環境の異なる種々の化合物について熱容量測定を行うことにしました.本報告ではトルエンおよびそのメチル基重水素化物についての熱容量測定の結果を報告します.

Fig. 1 Fig. 1. Low temperature heat capacity of toluenes in the α phase (stable crystal). The partially deuterated compounds (–CH2D and –CHD2) showed a broad anomaly.

Fig. 2 Fig. 2. Low temperature heat capacity of toluenes in the glass. The –CH2D and –CHD2 compounds showed an anomaly which is much broader than that of α phase. The broken curve stands for the heat capacity of fully protonated toluene (–CH3) in the α phase.

液体トルエンを急冷すればガラス(Tg~113 K)が得られること,その過冷却液体のアニール処理によって2種の結晶相(α相,β相)が得られることがすでに分かっています.β相は準安定相,α相は安定相で,融点はそれぞれ153 K,178 Kです.そこで,同じ物質の異なる相について過剰熱容量を調べることができれば,分子間相互作用の効果をあらわに見ることができ,これまでにない情報が得られるというわけです.なお,結晶構造解析からは,α相では非等価な2種のメチル基が存在することが分かっており,中性子非弾性散乱実験でも対応するメチル基の回転トンネル分裂が26.0 μeVと28.5 μeVに観測されています.

熱容量測定は,断熱型熱量計を用いて5–200 Kの温度域で,緩和型熱量計(PPMS)を用いて0.35 – 20 Kの温度域で行いました.断熱型熱量計ではガラスが作成できずα相しか得られませんでしたが,PPMSではガラスについても低温熱容量が得られました.両方の熱量計で見かけの冷却速度(dT/dt ~ 5 K min-1)が違わないにも関らず,PPMS測定でのみ液体ガラスが得られたのは,試料サイズが約1 μL程度と小さいためと考えられます.一方,今回の実験では残念ながらβ相は実現できませんでした.

Fig. 1にα相の熱容量(20 K以下)を示します.メチル基の部分重水素化物(–CH2D, –CHD2)についてはブロードな熱容量異常が見られます.これは2,6–ジクロロトルエンの場合と類似の結果です.しかしながら,トルエンの実測の過剰熱容量は,2,6–ジクロロトルエンのように単純な3準位系ショットキー関数ではフィットできず,過剰エントロピーも期待されるR ln 3 = 9.13 J K-1 mol-1より有意に小さいことが分かりました.重水素置換によって融解エントロピーが大きく違わず,過剰エントロピーの起源を高温域に求めることはできないため,メチル基の配向の乱れの一部が低温で凍結したものと考えています.ところで,中性子散乱実験で観測されたメチル基の回転トンネル分裂の大きさは2,6–ジクロロトルエンよりもずっと大きく,このことは回転ポテンシャル障壁が2,6–ジクロロトルエンの場合よりも薄い(したがって,トンネルしやすい)ことを示しています.にもかかわらずメチル基を部分重水素化したトルエンでメチル基の配向の乱れが低温で凍結するということは,その回転ポテンシャル障壁が高いことを示唆しています.

液体のガラスでもα相と同様,–CH2Dおよび–CHD2化合物について低温で過剰熱容量が観測されました.しかし,その形状はα相のものよりずっとブロードでした(Fig. 2).また,面白いことに,–CH2Dと–CHD2とで過剰熱容量に大きな違いが見られませんでした.ガラスでは分子配向がランダムになっており,メチル基が感じるポテンシャルが分布をもち,しかも平均化されるからだと考えられます.以上のように,構造科学的に貴重な知見が分光法によってではなく,精密熱測定によって得られることは非常に興味深いことです.

(鈴木 晴,稲葉 章)

発 表

鈴木 晴,稲葉 章,第45回熱測定討論会(八王子),1A1710(2008).

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