研究紹介 12

有機スピン液体物質における重水素置換効果

ジチオレン錯体の一種であるX[Pd(dmit)2]2という一連の化合物は,カチオンXの大きさを変えることで多彩な電子基底状態が得られます.特に,カチオンXがEtxMe4−xM(M = P,As,Sb)であらわされる物質では,Et基の数や中心金属Mの大きさ少しずつ変化させることで系統的な電子状態の変化をさせることが可能です.たとえば,X = Me4Pなどの小さいカチオンでは,40 K程度と比較的高い温度での反強磁性秩序が得られますが,カチオンサイズが大きいEtMe3Asでは反強磁性転移温度が22 Kまで低下します.さらに,大きなカチオンX = EtMe3Sbでは,電子構造が正三角に近くなるため,強いフラストレーションにより反強磁性秩序が完全に抑制され,量子スピン液体と呼ばれる特殊な電子基底状態が実現します.量子スピン液体は,spin-singlet pairが組み替わりながら揺らぐ特殊な状態で,実験的な検証が熱望されていました.このため,このEtMe3Sb[Pd(dmit)2]2についてはNMR,熱伝導率,磁化率測定など精力的な研究が展開されていますが,未だ明らかになっていない部分が多くさらなる研究が求められています.

Fig. 1
Fig. 1. The chemical structure of Pd(dmit)2 and EtxMe4−xSb+. The size of cation is becomes larger with increasing x. Three types of electronic ground states are obtained by each cation.

量子スピン液体の実験的な検証が難しい要因は,主として実現条件の厳しさやそれ故の対象物質の少なさにあります.たとえば,前述のようにX[Pd(dmit)2]2系では,カチオンの大きさを変化させることにより電子基底状態を調整できますが,Me4Sbでは反強磁性,EtMe3Sbでは量子スピン液体,Et2Me2Sbでは,70 Kという高い転移温度を持つ電荷秩序状態が実現します(Fig. 1).これら3物質の間の大きさを持つカチオンを持つ結晶は現在発見されておらず,量子スピン液体はEtMe3Sb[Pd(dmit)2]2のみで観測されています.この事実は,量子スピン液体を実現するためには,非常に繊細な電子構造のチューニングが必要であるということを意味しています.我々はこれまでに,EtMe3Sb[Pd(dmit)2]2のMe基を重水素化した試料の熱容量を測定し,重水素化により低温の電子熱容量が異常な増加を見せる可能性について報告してきました.この事実は,本系における量子スピン液体が非常に繊細な状態であることを示すとともに,重水素化によりカチオンサイズが僅かに変化させることで,非常に弱い化学圧力が導入できる可能性を意味する結果です.

Fig. 2
Fig. 2. The low temperature heat capacities of full deuterated sample, partially deuterated sample and pristine sample using CpT−1 vs T2 plot. The large upturn below 1 K is only observed in pristine sample. The systematic increasing of heat capacity with increasing deuteron suggests that the deuteration of cation in this system affect to the electronic property.

今回我々は本系における重水素置換が量子スピン液体に与える影響を調べるため,カチオンEtMe3Sb中の水素を全て重水素で置換した完全重水素置換体(C2D5(CD3)3Sb[Pd(dmit)2]2)の熱容量を精密に測定し,無置換体および部分重水素置換体の熱容量と比較しました.Fig. 2に無置換体(EtMe3Sb[Pd(dmit)2]2),部分重水素置換体(Et(CD3)3Sb[Pd(dmit)2]2)および完全重水素置換体の熱容量の温度依存性を示しました.1 K以下では,無置換体の熱容量が最も高い値を示しました.これは,Me基の量子回転現象による大きな熱容量のためであると考えられ,重水素置換体ではこの熱容量が大きく抑制されたと理解できます.1 K〜2 Kの領域に注目すると完全重水素置換体の熱容量が最も高く,無置換体の熱容量が最も低いことがわかりました.この結果は,完全重水素置換体においても,熱容量の異常増加が存在していることを意味しています.また,本物質のEt基には回転自由度は存在しないため,もし,部分重水素置換体で見られた異常な熱容量に,重水素化されたMe基の回転自由度が関与している場合,熱容量に変化はないはずです.このため,1 K〜2 Kの領域において,完全重水素体の熱容量が最も高かったという事実は,熱容量の異常な増加が主として電子熱容量の違いに起因することを意味しています.また,増加の比率にも注目すると,無置換体と部分重水素置換体の差に比べ,完全重水素置換体と部分重水素置換体の差は小さいことがわかります.完全重水素体ではEt基のみが新たに重水素置換されたという事実と合わせて考えると,重水素化によるカチオンサイズの変化の大きさに比例した化学圧力の変化に対応している可能性が考えられます.X[Pd(dmit)2]2系においては反強磁性相と量子スピン液体相の間に量子臨界現象が存在する可能性がありますが,今回得られた重水素化による熱容量の変化は,その可能性をさらに高める結果です.現在,この化学圧力効果について,他の反強磁性塩や電荷秩序塩等における重水素置換効果の検証も視野に入れた,さらに詳細な議論を目指しています.

(山下智史)

発 表

S. Yamashita, S. Fukuoka, Y. Nakazawa, K. Ueda, and R. Kato, the 15th International Congress on Thermal Analysis and Calorimetry (ICTAC15) (Higashi-Osaka), JO-YG-Or-22F (2012).

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