研究紹介 16

重水素化した[Cu(acac)(OCH3)]2錯体の
熱的性質

プロトンはイオン半径が非常に小さいため,結晶中であっても配置自由度や運動自由度を顕著に示します.こうした,結晶中での自由度と水素の量子力学的な特徴が合さった現象として,非常に距離が近い水素結合間で生じるプロトントンネル現象やMe基における量子回転現象が報告されています.有機化合物の中で最も小さい置換基であるメチル基は,しばしば,結晶中で回転自由度を持つことがあります.これは,立体障害が小さいため,数10 K程度の比較的低い温度でも回転が可能であることに起因しています.このような運動は,多くの場合,例えば,メチル基の水素を部分的に重水素置換した–CH2Dなどにおいて,配置自由度として観測されます.一方,トンネル回転現象の場合では,ポテンシャル障壁を量子力学的なトンネル効果によりくぐり抜けるため,プロトンが自由に回転します.このような場合,通常は3つのプロトンのエネルギー状態は完全に縮退し,熱容量には影響しませんが,水素の核スピンとカップリングすることで,I = 3/2と1/2のエネルギーレベルにそれぞれ4準位縮退したエネルギー準位を形成し,熱容量に影響を及ぼします.2つの準位間のエネルギー差は非常に小さく,[Ni(OCH3)(acac)(CH3OH)]4 錯体では1 K–2 Kにショットキータイプの大きな熱容量のピークが報告されています.また,量子スピン液体という特異な電子基底状態を構成する分子性物質EtMe3Sb[Pd(dmit)2]2においては,1 K以下にピークをもつ量子回転現象も報告されました.この物質では,磁場を印加することにより,緩和法では熱容量が測定できなくなるという特異な現象も報告されており,その機構の詳細について興味が持たれていました.

Fig. 1
Fig. 1. A schematic illustration of chemical structure of pristine compound of [Cu(acac)(OCH3)]2 and deuterated compound of [Cu(acac)(OCD3)]2.


これまでに我々は,[Ni(OCH3)(acac)(CH3OH)]4 と類似した[Cu(acac)(OCH3)]2を合成し,磁場中での熱容量測定により,Me基の量子回転現象の磁場依存性について報告してきました.この結果,磁場によってプロトンの量子回転熱緩和速度が遅くなることを確認しました.これは,先に例に挙げたEtMe3Sb[Pd(dmit)2]2の挙動を説明できる結果です.一方,EtMe3Sb[Pd(dmit)2]2ではMe基を重水素に置換することにより,トンネル回転による熱容量が抑制されることが報告されています.しかし,この重水素化により,低温熱容量の異常な増大が観測されており,重水素化により熱容量への寄与が小さくなったのか,その他の電子熱容量によるものかについては未解明となっています.今回我々は,[Cu(acac)(OCH3)]2の水素を重水素に置換した[Cu(acac)(OCD3)]2(Fig. 1)を合成し,熱容量を測定することで,トンネル回転現象における重水素置換効果に迫りました.

fig. 2
Fig. 2. The temperature dependences of heat capacity of deuterated sample [Cu(acac)(OCD3)]2 and pristine sample [Cu(acac)(OCH3)]2. The data of [Cu(acac)(OCD3)]2 under magnetic fields up to 14 T is also plotted. The large difference in the absolute values and peak top temperature of anomalies suggest that the quantum rotation was almost suggested and another classical like methyl rotation was appeared.

Fig. 2に,無置換体([Cu(acac)(OCH3)]2)と重水素体([Cu(acac)(OCD3)]2)の熱容量の温度依存性をCpT−1 vs Tプロットを用いて示しました.2 K以上では,水素体に比べて重水素体の熱容量が非常に大きいという結果が得られました.また,ピークトップの温度も約1 Kから4 K程度と大幅に増えています.Fig. 2には重水素体の磁場依存性も同時にプロットしていますが,以前に報告した水素体とは反対に,ピークの付近の熱容量が増加していく様子が捉えられています.このピーク付近の熱容量の増加は水素体でも見られた,磁気熱容量に起因するものであると理解でき,基本的なピーク構造は磁場には依存していないものと考えられます.重水素の核スピンは1であり,軽水素の核スピンである1/2とは異なりますが,メチル基のトンネル回転におけるエネルギー準位の差は,プロトンの量子性に由来するものであるため,重水素体においても同様のトンネル回転が生じている場合,より低温で観測されると考えられます.また,磁場に対する緩和速度の依存性も特には見られなかったため,今回重水素体で見られた大きな熱容量はメチル基のトンネル回転に起因するものではない可能性が高いと考えられます.水素体との比較より重水素体における熱異常のエントロピーを計算するとRln3程度に匹敵する7〜8 J K-1 mol-1の値が得られるため,重水素の置換が不完全であったことなどによる古典的な配置自由度の可能性も低いといえます.

今回得られた結果では,重水素体における熱異常とMe基の回転現象との関係については完全には解明できていませんが,少なくとも重水素置換はトンネル回転現象を大きく抑制することを確認できたことは,今後の研究における大きな指標といえます.また,通常では分子構造や結晶構造にあまり大きな変化を与えない重水素置換による今回のような劇的な熱容量の変化は,トンネル回転現象は,結晶構造の微妙な変化にも極めて敏感であることを示しています.今後は,重水素体・水素体双方の熱容量を高い温度まで測定することにより,結晶構造などの違いがどの程度のものであるかどうかを熱力学的観点から検証し,本系におけるMe基の自由度についてさらなる研究を予定しています.

(吉住昌将,山下智史)

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