千原秀昭先生を偲ぶ

清濁併せ呑むのが苦手な人と思われて,時に誤解を生むことがあったかもしれない.あくまでも理念を尊重し,何かにつけ筋を通し,正論を曲げない性格がまわりの印象をそうさせたのであろう.切れ味の鋭い,非常に厳しい先生であった.そんな外見とは裏腹に,柔軟な思考のもとに少年のように初々しい熱い心を持ち続けた千原秀昭先生だが,2013年6月23日に他界された.86歳であった.学者としてのみならず実務にも長け,いずれにも一流の仕事をされた稀有な存在であった.

大阪大学での研究は,低温の熱容量測定,核四極共鳴,核磁気共鳴(NMR),誘電吸収,超音波など,マクロとミクロの実験手法の組み合わせを採用し,構造と結びつけて分子の運動を調べる点で一貫していた.千原研究室に私が4年生として配属されたのは大学紛争が収まりかけた1970年であった.先生の方針で三つのグループに分けられた.中村亘男博士(当時は講師)の核四極共鳴グループ,曽田元博士(故人,当時は助手)の核磁気共鳴グループ,それに熱のグループであった.当時,熱測定による研究をしていた阿竹徹氏(故人)は大学院生であったため(その後,助手に着任),私は千原先生直属の最後の学生として熱グループに配属された.

当時はパソコンがまだなく,測定台に張り付いた徹夜実験が必須であった.液体水素や液体ヘリウムの寒剤を使った実験では常に先生が陣頭指揮を執られた.しかし,若手教授として総長補佐などを務めておられた先生は多忙を極め,しかも出張が多く,本格的な実験指導を受けたのは最初の2年くらいであった.それは私にとって密度の濃い,非常に楽しい時期でもあった.唯一の難点は,先生と一緒の実験は決まって遅れることであった.たとえば,寒剤で冷却したクライオスタットに空気が流入し,それが固体になって詰まった.一刻も早く測定を始めたい私を尻目に,その固体が窒素か酸素かを確かめるのに実際に棒で押してみて,「柔らかいと窒素,堅いと酸素,固体窒素は柔粘性結晶だから」という講釈が始まるのであった.それは何と効果的で贅沢なマンツーマン教育だったことか.また,博士課程2年の折に,豊中キャンパスで液化機の更新があり,実験に必須の液体水素が供給されなくなった.当時はオーバードクター全盛期であり,実験が止まることは特に気にもならなかったが,先生の決断は早かった.軽トラックを借りて自ら運転し,液化機が動いていた吹田キャンパスから30 Lの液体水素を何回か運んで下さった.もちろんパトカー先導であった.そのとき,学生たちは先生の熱い想いを垣間見たものであった.

研究室内のセミナーではもちろん,学会でも先生の質問は本質を突いた厳しいものばかりであった.配属後の最初のセミナーを1回で済ませる4年生はごくまれで,開始後5分ともたず次週にやり直しを命じられたものである.学会会場でも,先生の姿があるかどうかで雰囲気が変わることもあった.用語の定義や使い方に厳しかった.大学院生を相手に「スペクトルとは何か」と問われたことがある.エネルギーに関する情報を含んでいればスペクトルで,そうでなければ単なる図形(あるいは模様)であって,教科書にも誤用がよくみられる.正確に伝えるという点で言葉を大切にされ,翻訳でも非常に厳しかった.英語の「determine」は辞書には「決める」とあるが,たとえば「分子量を決める」と訳すのを嫌った.分子量は決まっているもので,人間が決めるものではない.日本語では「測定する」もしくは「求める」ものだとこだわった.逆に日本語の「つぎに…」に対応する英語には「next」と「following」があり,区別して使われる.このように,言語や文化の違いを十分認識すべきというわけである.

千原先生の化学情報との関わりは,ケミカル・アブストラクツ(CA)の抄録作業を始められた1952年に遡る.当時は大学院生であった.日本での取りまとめ役(先生の言によれば手配師)を務める契機になったのは,1969年に当時の日本化学会会長の赤堀四郎先生の依頼による(化学語り部第10回,千原秀昭先生インタビュー,日本化学会).こうして,化学情報の国際化に化学会でも本格的に対処するようになり,先生は1971年4月に任意団体として化学情報協議会を東京に設立,1975年には社団法人として化学情報協会を設立された.大阪大学定年までの20年間は,東京との往復で,いかに多忙だったか想像できる.10年以上前の話だが,何度か化学情報協会に先生を訪ねたことがある.小さな会議室に張り紙がしてあり,会議の規則として(1)重要な会議でも1時間以内で終わること,(2)出席者は全員必ず発言すること,とあった.大学を離れても先生らしいと思ったものである.その化学情報協会も,先生は80歳を機に後進に委ねる決心をされ,大阪の自宅に居を移されたのはつい2年ほど前であった.無類の車好き(正確には運転好き)で,夜のドライブで東京から車を持ち帰ったそうである.

本誌「現代化学」には1971年の創刊号から先生は陰で編集に協力してこられた.もう時効だから明かしてよいだろう.Correspondents欄(いまはFlash欄)に新着の研究情報をよく書いた.また,1973〜1977年にかけて「兎耳郎」のペンネームで,科学から教育,政治に至るまで,毎号のように歯に衣着せぬ意見を吐いておられた.先生は卯年であり,その文体からも筆者を容易に察することができた.中には辛辣な批判もあったが,いずれもが正論であった.

一方,大学では1970年代後半と思うが数年間,1年生を相手に「化学序説」の講義をもたれた.研究室で手書きの原稿を準備されていたのを覚えている.その後,仮製本したものの書籍として出版することなく,手元で何度か改訂されていた.最近になって,余命が限られるのを知った先生は,これを全面改訂して是非とも出版したい,それには2年間の命が欲しいと言っておられた.実際,いったん退院された今年5月には第1章を書き終えたが,予定した6章が完成することはなかった.

千原先生は,仁田勇先生の「分子構造論」(旧版の岩波全書)に惹かれて大阪大学に入学された.人間関係に煩わされず仕事ができるので自然科学を選ばれたらしいが,実は非常に人間くさい学問であると述懐しておられる.1959年から2年間,National Research Council of CanadaのJ. A. Morrison教授を見倣って,それ以後,タバコをやめることはなかった.Morrison教授は1987年に肺がんで亡くなったが,奇しくも先生も肺がんに冒されたのであった.生まれたときは健康優良児だったらしいが,その後は決して強くなく,胃を含む臓器をいくつか摘出していた.米国出張中に体調の異変で急遽帰国したり,東京での単身生活では自ら救急車を呼んだりして,何度も試練を乗り越えられたが,今度ばかりは叶わなかった.それが残念でならない.ご冥福をお祈りしたい. (この追悼記事は,現代化学8月号に掲載されたものを,東京化学同人の許可を得て転載したものです)

(名誉教授 稲葉 章)


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