振り返れば

(名誉教授 稲葉 章)

2013年3月末で定年退職によりセンターを去ってから数ヶ月が経ちました.センター専任教員として15年,兼任教員として18年の長きにわたり,在職中はいろいろな方に大変お世話になりました.お陰様で自身の研究生活に一区切りができたと感謝しています.この機会に,とりわけセンターとの関わりで少し振り返りたいと思います.

1976年に博士課程を終えて幸運にも当時の計量研究所(東京)に職を得た私は,1979年の研究所移転にともない筑波に引っ越しました.それは,関集三先生の定年退官と入れ替わりに理学部に化学熱学実験施設が設置された年でした.翌年に思いがけないことが二つ起きました.一つは,その後の留学先となるモリソン教授(マクマスタ大学)が筑波を訪問され,当時の原研(東海村)の中性子実験施設に私が案内したことです.その折にカナダへの留学を強く勧められましたが,当時は国際温度目盛の改訂(現行のITS-90)に向けての基礎研究に従事していたこともあり断念せざるを得ませんでした.もう一つは,千原秀昭先生(当時の施設長)から実験施設の最初の専任スタッフ(助手)として大阪に戻らないかという勧めがあったことです.それは私にとって大きな転機となりました.

1980年7月に赴任した当時の施設は新築のままで,実験室内の工事に加え,いろいろな装置や道具を揃える時代でした.それまで極低温で仕事をしてきた私は,全く未経験の高温域の断熱型熱量計を製作することとなり,接着剤や絶縁材料,真空シール,標準温度計など,必要な材料探しに奔走しました.室温以下では日常使う材料がたいてい使えるのに,高温では半田付けすらできないことに愕然としたものでした.しかし,当時はまだNASAの華々しい活動の余波が残る時代で,ときに面白い材料に出会うこともできました.また,東京の大手貴金属店の工場長に直談判して,貴金属製の試料容器を材料費だけで製作してもらいました.とはいえ,相手は真空と無縁であったため,大阪⇔東京を何度も往復したのを覚えています.この装置の断熱制御器から果てはデジタル回路を使った時計までもが自作で,いろいろなノウハウが詰まった自慢の作品でしたが,論文を数報書いて終わってしまいました.

1984年3月,念願叶ってモリソン教授の下に留学することになりました.当時5歳,7歳,9歳の子供連れ家族の初めての外国生活で,私にとってはその後の研究(吸着膜の熱測定)のみならず,大袈裟に言えば人間形成に至るまで最も重要な時期でした.何かにつけ教授とのマンツーマンの作業は無条件に楽しいものでした.あまりの入り込みようで,私の口調や筆跡までもが教授と似ていると指摘されたのでした.帰国前の1985年12月には,オックスフォードで開催のファラデーシンポジウムで研究発表を行いましたが,その世話人でもあったレドベター博士の招待でラザフォード研究所を見学しました.それはちょうど,研究所で最初の中性子を発生した記念すべきで日でもありました.いま思えば,その時の感動がその後の伏線でした.こうして,当初1年間の予定であった留学が延長となったため,その間に私は講座(千原研究室)に配置換えとなり,2003年まではセンター兼任教員としての付き合いとなりました.カナダから帰国後すぐの1986年からフランス(グルノーブル)の原子炉と,少し遅れてイギリス(ラザフォード)の加速器を使った中性子源による吸着膜を対象とした中性子実験を始めました.実験のプロポーザルが次々と採択されて,年間10回を超える外国出張など,当時は強烈な日々を過ごしたものですが,今となっては懐かしい思い出です.

1990年に千原先生が定年退官されました.この年,外国出張による資金不足で非常に困窮していた私に思わぬ幸運がやってきました.外国旅費専門の科研費「国際学術研究」が新しく設置され,それに採択されたことでした.いまでは科研費での外国旅費の支出は当然ですが,当時は禁止されていたのでした.この科研費が3年間続く間に,オックスフォード大学やケンブリッジ大学との共同研究が軌道に乗り,その後10数年も継続することになりました.ただ,その実体は相手方の学生の実験指導の色彩が強く,非常に苦労したものですが,これによって英語による本音のコミュニケーションに馴れることができたかもしれません.この年のもう一つの幸運は,ゴードン会議に招待されたことでした.これには勇気百倍でした.また,当時の中性子実験施設では,論文でしか出会うことのない著名な研究者に会って議論できたのも楽しい思い出です.その後は菅宏先生と後任の松尾隆祐先生の研究室にお世話になりました.中性子実験については,国内の実験施設(高エネ研と原研)も頻繁に使った時代でした.

1995年には,また元気づけられることがありました.化学会の推薦で山田科学振興財団の研究補助金をもらえたことです.吸着膜の熱測定と中性子散乱実験がちょうど軌道に乗り,科研費で吸着膜に特化したX線回折装置を製作したところでした.そこで,低温での吸着膜のX線回折を是非とも実現したかったわけです.吸着単分子膜という未知の対象の構造と物性,ダイナミクスを研究する上でこれらは強力な相補的実験手法と考えたからです.中性子実験に入れ込むあまり,一時は熱測定を放棄しようかと脳裏をよぎりましたが,結局は継続したのでした.いま思えば,中性子実験をしながらも自分の頭にはいつもボルツマン分布があったからでしょう.それほど熱測定が身に染みついていたのかもしれません.2000年には思いがけず,カロリメトリ会議のクリステンセン賞を受賞することになり,懐かしのカナダで講演させてもらいました.

2003年には松尾先生とセンターの徂徠道夫先生が定年を迎えられました.大阪大学の熱測定を中核で支えてこられた先生方が次々と去られ,今後どうなるかと不安に思ったものでした.そんな中,この年の7月に私は当時の分子熱力学研究センターに教授として移籍することになりました.それまで兼任教員であった間に,化学熱学実験施設は1989年にミクロ熱研究センターとなり,1999年には分子熱力学研究センターに改組されていました.次の時限が2009年に迫っていたこと,国立大学法人化により様相が一変していたことなど,不安材料はいろいろありましたが,運営委員の先生方,当時の東島清理学研究科長をはじめとする研究科全体の支援で,現在の構造熱科学研究センターとして出発することができたのでした.退職までの10年弱でもっとも神経を使ったのはこの改組であったことは間違いありません.一方で,この間にヨーロッパ,アジア諸国から延べ30名を超える研究者を招聘し,1ヶ月〜3年の間センターに滞在して実験研究を行うことで成果を挙げることができたのは,われわれとして大きな喜びであると同時に誇りでもあります.大学の一研究室程度の規模のセンターとしては,世界に開かれた活発な活動と評価されたものと考えています.

振り返ってみると,改組の折にセンターを「オンリーワン」として研究科ならびに大学本部に認めてもらったのは,単なる希少価値ではなく,ユニークな研究を行うユニークな存在として世界的に認められたことでした.市販装置が普及した今日では特に,単なる熱物性研究でなく,熱力学の本質に強く関わる研究こそが,センターで行うべき研究と信じています.私は当時,熱測定と相補的な情報を得るには中性子実験が最適と考えましたが,いまでは他の分野があることでしょう.また,私はバルク固体から単分子膜へという展開を目指しましたが,全く新しい機軸もあるはずです.それが何かは後進の皆さんに託すしかありません.近年,大学全体が実利の方向にますます変質しています.センターがそれに流されてしまわないためには,個々人が確固たる信念をもち,理学ならではのテーマを追究することかもしれません.

さて,改めて自身を振り返ってみると,人生にはいろいろな伏線があるもので,いくつもの偶然が積み重なったあげく突然の転機が現れ,それがいつの間にか必然の流れになってしまう気がします.それには,何よりも人と人のつながりが重要な要素だとつくづく感じさせられます.在職中は,何かにつけプロフェッショナルであることを目指してやってきましたが,自由の身になったいま,これからの自分に何ができるかを模索する日々です.

最後になりましたが,師と仰いできたモリソン先生(1987年10月没)と千原先生(2013年6月没)に,改めて感謝の意を捧げたいと思います.

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