私が分子熱力学研究センター(当時ミクロ熱研究センター)に始めて来たのが修士一年生の4月でしたので, 延べ7年間ほどセンターにお世話になっていたことになります. 「シゾフィランという多糖高分子の水溶液を研究するために,熱容量という量を測定するとよいので, 日本で一番実験精度のよい装置を使わせてもらえるから一緒に行きましょう」と在学時の指導教授だった立命館大学の寺本明夫先生から伺ったのが初めてセンターに来たきっかけです. 二人でセンターに伺い,当時センター長の徂徠先生と, 共同研究者となっていただくことになる宮崎先生を紹介していただき, 実験に使用する断熱型カロリメーター(微少試料用)を見せていただきました. これほど長くこのカロリメーターにお世話になる(あるいはお世話をする)とは思ってもいませんでしたが, 装置を見てその大きさと断熱制御の計器,あるいは装置の工夫に圧倒されたことが当時の記憶として残っています. 熱を正確に測定するという経験がなかったので, なぜこんなに大きな装置が必要なのかが当時ほとんどわからなかったことを覚えています. センターで実験を始めて数日たつと,研究室の方々がより良い精度(あるいは測定値の絶対値)を扱うために, カロリメーターやセルを扱う手順を必要十分に簡単化していることに気がつきました. 装置が複雑なので当然だと思われるかもしれませんが,当時実験の経験がほとんどなく, 試料の調整法がまだ確立していない状況でしたので,センターの研究環境はその後の研究の大きなヒントになり, このことは今も心に留めています.
次に,センターで過ごしたほとんどの研究生活で行なっていたシゾフィランの研究について少し述べさせていただきます. シゾフィラン水溶液の研究は以前にセンターで行なわれていたこともあって, 私たちが実験する時には熱容量を含めてかなりの実験結果が報告されていました.研究を始める前に, シゾフィランは三重らせんを形成しており,その重水溶液は17℃(水溶液は7℃)で転移し, 熱容量は転移をピークとして検出することがすでに知られていました. この転移には顕著な分子量依存性が見られますが,転移挙動は水分子が水素結合によって高分子の近傍で構造化し, 分子長軸方向に協同的に転移するためと説明されています(この水分子を構造水と呼んでいます). 先生方と相談し,実験の方針を熱容量の溶液濃度依存性を調べ, 転移の詳細な分子機構を考察することになったのですが, 初めの1年間は以前とほとんど同じ実験結果でその測定精度に驚いたものの, かなりの高濃度にしてもほとんど熱容量が変化しないので,その後方針の変更を考えたりもしていました. 博士課程に入る前には試料の知見も増え,分子量が適していないことと試料が古いことが問題になっていましたので, 高濃度であっても十分に水に溶け,少し大きい分子量の試料を新しく調整し, 今度はもっと高濃度にあげれば構造水量は少なくなる(あるいは転移挙動は変わる)と信じて再度センターで実験することにいたしました.
溶液濃度を変えて実験を行なうと,ある濃度までは転移エンタルピーは変わらないものの転移温度が上昇し, さらに高濃度になると転移エンタルピーが減少しました.ほぼ全ての実験を低温から行なっておりましたので, この二つの濃度領域では束縛水量が変化しないこともわかってきました. 梅雨の終わりの7月上旬ごろから1ヶ月間ほど,行きと帰りの阪急電車で, この転移の濃度依存性はなぜ起こるのかを考え, ある日夕飯ででてきた「ごぼうの天ぷら」のような水の層構造が恐らく重なり合うと転移挙動が変わってしまうのだろうということに気がつきました. その時には並行して行なっていたコレステリックピッチの実験(シゾフィランの分子は棒状なのである濃度以上では液晶状態になります)から, 秩序状態ではピッチが大きい,つまり分子は平行に並ぶような実験結果を得ていましたのでそのモデルの検証がしたくなりました. 当時は重水溶液のみ測定しておりましたので, 溶媒密度を変えて濃度依存性が同じ挙動が見られればモデルが正しいだろうということ, また重水溶液では転移温度が上りすぎていましたので,今度は軽水溶液の測定をいたしました. その後の実験の結果,転移挙動が変化する臨界濃度から計算した最も外周の層は約 2.8 nm であり, 以前から言われていたシゾフィラン三重らせんの側鎖を含めた直径にほぼ等しいことを先生に指摘していただきました. この考察の中で,センターで行なった実験の絶対値の正確さに対して感謝しました.
研究を行なう上で多くの先生方に議論のお時間をいただきお世話になりました.熱測定の厳密さを強調し, 研究の醍醐味を教えていただいた徂徠先生, ミクロカロリメーターの使用法を教えていただいた宮崎先生と当時客員研究員として来られていた王先生, センターでいつも一緒に実験をしてくれた共同研究者の菊池君, 研究の興味深い議論をしていただいき,今後の研究生活の指針を与えていただいた稲葉先生と齋藤先生, そして池内君に深く感謝いたします. 最後に,研究を遂行するにあたって多くの教授とご指導を賜った寺本先生に深くお礼いたします.
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