Fig. 1. Molecular structures of DAPP and abpt ligands.
一般に,d4 から d7 までの電子配置をもつ遷移金属錯体の中には, 温度や圧力などの外的要因によって金属と配位子間の距離が変わり, 高スピン状態から低スピン状態へとスピン状態が変化するものがあります. この現象は「スピンクロスオーバー」と呼ばれています. 特に温度誘起スピンクロスオーバーに限りますと, スピンクロスオーバーは広い温度範囲で連続的(ファントホッフ的)に起こるタイプと, 相転移によって狭い温度範囲で不連続的に起こるタイプの2種類に大別できます. 最近ではこれらの中間の性質を示すものも知られてきました.
標題の鉄錯体は Fig. 1 に示す2つの有機配位子が2価の鉄イオンに配位した錯体です. この錯体は共同研究者であるフランスの Matouzenko 博士によって合成されました. これまでに磁気測定などの物性測定が行われており, 加熱方向において 181 K で一次相転移を経て S = 0 の低スピン状態からS = 2 の高スピン状態に変化すること, この相転移が 10 K ものヒステリシスを伴うことなどがわかっています(G. S. Matouzenko et al., Inorg. Chem. 43, 227 (2004)). 今回この錯体のスピンクロスオーバー現象を詳細に調べる目的で 熱容量測定を中心とする物性測定を行い,興味深い現象を見出しましたので紹介します.
測定に用いた試料は 1 mm 程度の比較的大きな結晶形をしており, 断熱法による熱容量測定は 0.18032 g の試料量で行いました.また,他の物性測定として示差走査熱分析, 遠赤外吸収・ラマン分光測定,磁化率測定を行いました.
Fig. 2. Heat capacities of [Fe(DAPP)(abpt)](ClO4)2.
Solid curve indicates normal heat capacity. Inset shows variation of heat capacity peaks due to
phase transition with respect to the number of repeated measurements.
Fig. 3. Variation of transition temperatures (a), enthalpies (b), and entropies (c) with respect
to the number of repeated measurements.
Fig. 2 に熱容量の測定結果を示します.185.8 K に一次相転移による鋭い熱容量ピークを観測しました. また,示差走査熱分析において,この相転移が 10 K ものヒステリシスを示すことを確認しました. 遠赤外吸収・ラマンスペクトルも相転移前後で明瞭な変化を示しましたが, スピンクロスオーバーで期待されるような顕著な変化は見られませんでした. 今回,非常に興味深い現象として,Fig. 2 の挿入図に示されているように, この相転移を繰り返し測定するにつれ転移温度が上昇し, 転移ピークがだんだんとブロードになっていく現象が見られました. 同様の現象が磁化率測定でも見出されました.また,測定後に試料を取り出してみると, 微粉末化していることが確認されました.
転移エンタルピーおよびエントロピーを求めるために, 正常熱容量をデバイ・アインシュタイン関数を用いて表し,Fig. 2 中のパラメーターを決定しました. この際既知の分子内振動として, 同じ共同研究者の Borshch 博士によって計算された低スピンおよび高スピン状態における [Fe(DAPP)(abpt)]2+ の基準振動を用いました. 得られた転移エンタルピーおよびエントロピーはそれぞれ 15.6 kJ mol−1, 83.9 J K−1 mol−1 となりました. 転移エントロピーの起源として, スピン多重度の変化に基づくエントロピー(R ln5 = 13.4 J K−1mol−1)と分子内振動の変化からの寄与(36.6 J K−1mol−1)が,まず考えられます.さらに, X線構造解析結果から,DAPP 配位子と2つの ClO4? のうちの1つが, 相転移温度よりも高温で少なくとも2方向に対して無秩序状態であることが報告されているので, 無秩序化によるエントロピー変化(2R ln2 = 11.5 J K−1mol−1)が考えられます.しかし, これらを合計しても(61.5 J K−1 mol−1)実測の転移エントロピーを説明できません. おそらく説明できない残りのエントロピーは, 格子振動の変化からの寄与や ClO4− のさらなる無秩序によるものでしょう.
Fig. 3 は相転移の繰り返し測定回数に対する転移温度と転移エンタルピー, エントロピーの変化を表したものです.転移温度は回数が増加するにつれて上昇しますが, 転移エンタルピーとエントロピーはほぼ一定であることがわかります.
このような相転移の現象は,いわば自己機械化学効果ということができるでしょう. 転移温度の上昇は,おそらく結晶の微粉末化による表面エネルギーの増加で定性的に説明できそうです. 今回の非常に珍しい現象に対する今後の理論的な解析が楽しみです.
Y. Miyazaki, T. Nakamoto, S. Ikeuchi, K. Saito, A. Inaba, M. Sorai, T. Tojo, T. Atake, G. Matouzenko, S. Zein, S. A. Borshch, The IXth International Conference on Molecule-based Magnets (Tsukuba), PA-155 (2004).
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