ギブズの相律が平衡状態でのみ成り立つ理屈は初等化学熱力学で学ぶところです. したがって相図も本来,平衡相だけが対象となるのであって,ガラスなど非平衡状態をこれに書き込んではなりません. しかし,よく見られるようにここでも敢えて違反して,2成分系について“非平衡相図”をつくりました. 系はグリセロール水溶液です.
話の発端は「アイスクリームの科学」にまで遡ります. あのような舌触りの微結晶氷をつくりあげるには,糖などの濃厚水溶液からの水の結晶化にいろいろ工夫があるのです. そこで,グリセロール濃厚水溶液(55質量%)を例に,水溶液ガラスの結晶化を中性子回折と小角散乱で調べたところ,結晶の核生成から結晶化の初期過程で構造に2次元性をもつ実体が見いだされたのです(Fig. 1) (A. Inaba et al., J. Neutron Research 13, 87-90 (2005)). その後も種々の過冷却水溶液から水が結晶化してくる様子を,とりわけその初期過程に注目し広角および小角で中性子回折実験を行い構造的な側面から調べてきました.
Fig. 1. Neutron diffraction patterns from glycerol water (D2O) mixture at 55% (in mass).
Fig. 2. Heat capacity of the binary system of glycerol/water.
Fig. 3. A “non-equilibrium phase diagram” for the binary
system of glycerol/water.
これと関連して,これら2成分系について特定の濃度だけでなく,組成を変化させたときの系の不均一性や非平衡な状況を明らかにしておこうと考えました. そこで今回は,代表的な系としてグリセロール水溶液を取り上げ,相挙動を調べるために熱測定を行いました. よく知られているように,純粋なグリセロールは結晶化しにくい代表的なガラス形成物質であり,これに対し水は緩慢な冷却では直ちに結晶化が起こります. この両者からなる2成分系について“非平衡相図”を作成したところ,興味深い多重ガラス転移が観測されました.
種々の濃度のグリセロール水溶液について80〜300 Kの温度域で熱容量測定を行いました. 代表的な結果をFig. 2に示します. ガラス転移で観測される熱容量のステップと特異的な温度ドリフト(自発的な吸発熱現象)を手掛かりに非平衡相挙動を捉え,その結果をまとめたのがFig. 3です. 高濃度試料では唯一のガラス転移が観測され,純グリセロールと同様,結晶化は見られませんでした. これに対し低濃度試料では多重ガラス転移が観測されました. 最も低温で観測されたガラス転移は,氷のプロトンの位置の凍結によるものです.
0〜55質量%では,グリセロール/水の混合物は複雑なガラス転移挙動を示します. この領域では冷却時の結晶化が関与しており,80 Kから昇温したとき3つのガラス転移が観測されました. 約115 Kのガラス転移(Tg3)は,六方晶氷におけるH2O分子の再配向が凍結することによるものです. そのガラス転移は,グリセロールの濃度増加とともに温度値がわずかに上昇しています. すなわち,グリセロール分子が水分子の再配向速度を減少させている様子が分かります. 約163 Kに観測されたガラス転移(Tg2)は,共融組成をもつガラス性液体によるものです. また,最も高温側で観測されたガラス転移(Tg1)は,元の組成に近いガラス性液体によるものと考えています. これら3種のガラス転移は互いに独立なアニール効果を示すことが分かり,この系が不均一系であることが分かります. また,いずれのガラス転移も,濃度が1〜5%の範囲では温度が連続的に変化しているので,この領域では固溶体を形成していることが分かります. 一方,60質量%の試料では冷却時には結晶化を阻止しておきながら,昇温時に結晶化過程を観測することができました. その結果は,構造研究の結果と矛盾なく理解することができました. すなわち,グリセロール水溶液の均一な過冷却液体から,大きなエンタルピー変化を伴う結晶化が2次元的に起こり,中性子回折で確認されたような秩序構造が生成されるわけです. さらに昇温したとき,この2次元構造が六方晶氷へ転移する際のエンタルピー変化は,比較的小さいと考えられます.
より高濃度のグリセロール水溶液では,ランダムなまま均一に凍結したガラス性液体が実現できます. そこで,ガラス転移温度の濃度依存をGordon–Taylorの式を用い素直に外挿すれば,純水のガラス転移温度として135 Kを狙っていることが分かります. 出発点に戻って再び注意しておかねばならないのは,ここでの“非平衡相図”には当然のことながら全てに時間の因子が入っており,試料の冷却速度や測定(スキャン)速度によって異なる相図が得られるということです. いずれにしても,これらの挙動には水素結合が重要な役目をしていることは明らかで,水が関与したこのような現象には興味が尽きません. しかも生体系では特に,非常に重要な現象になっています.
稲葉章,Ove Andersson,第41回熱測定討論会(福岡)2C1110 (2005).
Copyright © Research Center for Structural Thermodynamics, Graduate School of Science, Osaka University. All rights reserved.