究極の重水素置換効果
― 熱物性に顕著に現れる分子や核スピン種の
対称性と量子性 ―

Fig. 1 Fig. 1. An isolated methyl group (a) can rotate freely. When the methyl group feels some potential, which is created by the intra- and inter-molecular interactions, it can only oscillate rotationally. In the case of (b) lithium acetate dihydrate, the potential barriers for methyl groups are low enough to give rise to substantial tunneling.

プロトンは質量が小さいために,物質の量子性が顕わになるいろいろな局面で主役を演じます. ここでは,結晶中でのメチル基の回転を考えましょう. 分子や結晶,あるいはプロトンがもつ核スピンを含めた対称性が,場合によっては凝縮相の熱物性に大きな影響をもたらす例を見ることができます.

1) まず,孤立したメチル基をC–C軸のまわりに回してみます〔Fig. 1(a)〕. このとき,回転を妨げるポテンシャル障壁が全く存在しないので,メチル基は自由に回転することでしょう. その回転エネルギー準位は,回転軸まわりの慣性モーメントの大きさだけで決まります. この状況では,メチル基がもつ対称性(3回対称)は特に重要な意味をもちません.

2) ところで,メチル基は何かに付いて分子を形成します〔Fig. 1(b)〕. また,結晶中には隣接分子がいます.こ のとき,分子内や分子間から与えられたポテンシャル障壁のため,メチル基は自由な回転ができず,ふつうは回転的な振動運動を行うことになります. しかし,そのポテンシャル障壁がさほど高くなければ(正確には,ポテンシャル障壁の厚さが十分薄ければ)量子力学的なトンネル効果によって,メチル基は回転できることになります. すると,基底状態を含め回転エネルギー準位はそれぞれ特有の分裂(トンネル分裂)を起こします. その分裂様式はポテンシャルの強さと対称性を反映しているので,これを研究するために中性子散乱などの分光法が適用されてきました.

3) さて,このようなポテンシャルが存在すると,一般にメチル基は歪みます. 皮肉なことに,メチル基が本来もっていた3回軸が重要になるのはこのときです. 対称性の低い場の中でメチル基をむりやり回転させたとしても,1回転させる間に(“プロトンがもつ核スピンを考えなければ”)区別できない同じ状況を3回実現することができるでしょう. つまり,回転ポテンシャルは3回対称をもつわけです.

4) ここで,分子内や分子間から3回対称より高い対称性をもつポテンシャルを与えられたらどうでしょうか. メチル基がカルボキシル基に付いた場合〔Fig. 1(b)〕がそうです. このとき,メチル基は6回対称をもつ回転ポテンシャル成分も感じることでしょう. そのお陰で,ポテンシャル障壁は低くなり,壁の厚みが薄くなる様子が想像できるでしょう. つまり,メチル基はトンネル回転しやすくなります. あるいは,トンネル分裂が大きくなります. 結晶中の高い対称サイトにメチル基が置かれた場合も,同様なことが言えます.

5) 対称性の問題は,実は,プロトンがもつ核スピンも考慮に入れなければなりません. メチル基のトンネル回転にはプロトンの交換が関与するため,波動関数の対称性が問題になるのです. このとき,プロトンがフェルミ粒子であることが重要になります. プロトンの核スピン(↑または↓)によって,メチル基としては2種類(AとE)の回転スピン種が存在します. この核スピンの向きは,何らかの触媒作用を受けない限り,反転(↑と↓の間の変換)は非常に遅いものです. 同じ現象で有名なのは水素分子(オルト水素とパラ水素)です.

6) このようにメチル基のトンネル回転は,核スピンも関与した対称性が重要な役目を果たす量子力学的な現象です. そこで,メチル基を重水素化してみます.まず,3つのプロトンを全部デューテロンに置換します. すると質量が重くなった分,エネルギー準位の間隔は狭くなるでしょう. また,メチル基の回転をしにくく“局在化”させることになります. また,デューテロンはボーズ粒子であり,粒子を交換したときの全波動関数の対称性の要請がフェルミ粒子の場合とは異なるため,スピン変換の様式も違ってきます. 事情は非常に複雑なものとなります.

7) 一方,メチル基を部分的に置換して,–CH2Dや–CHD2にするとどうでしょうか. メチル基はもはや3回軸をもたないことになります. このとき結晶としてどんな現象が起こるか,それが本研究の興味です.

前置きがだいぶ長くなりましたが,研究の実際例を示しましょう. 今回,対象としたのは酢酸リチウム2水和物結晶で,メチル基を逐次重水素置換したものです. 低温での結晶構造は基本的に同じです. 近接するメチル基同士(3.3 Å)が“角突き合わせで”ペアをつくる特異な状況があり,まるで二量体を形成しているかのようにカップルしています. また,別の二量体とは少し距離が離れていますが,所詮は結晶中ですから互いに無視できるとは言い切れません.

Fig. 2 Fig. 2. Heat capacity of lithium acetate dehydrates.

さて,5 K以上で行った熱容量測定の結果をFig. 2に示します. –CH3結晶では,スピン変換に要する時間が低温で長くなることによる凍結現象が,ガラス転移として観測されました. これに対して,–CD3結晶では,17 Kをピークとする美しいラムダ型の相転移が観測されました. 部分的に重水素化した–CH2D結晶および–CHD2結晶でも,鈍いながらも熱容量にピークが観測されました. 加えて,–CHD2結晶では極めて鋭いピークが6 Kに観測されました. このように,非常に複雑ですが顕著な重水素置換効果が観測されたのです. より低温での測定も行いましたが,四者四様の挙動が見られ,すべてを解釈することは今のところできていません. しかし,協同現象に加えエネルギー準位に関する情報が熱容量に反映されているはずです. しかも,核スピン変換のキネティックスまで捉えられています. 結晶構造だけでなく,分光学的な知見と併せれば謎解きができると期待しています. 本研究は,フランスCNRSのフィオー博士との共同研究として進行中です.

なお,対称性に加え次元性も関与したトンネル回転の問題については,グラファイト表面に吸着して2次元固体を形成したメタン分子について研究を行い,すでに成功を収めています〔A. Inaba, et al., J. Chem. Phys., 103, 1627 (1995) 〕.

(稲葉 章)

発 表

F. Fillaux,第42回熱測定討論会(京都)特別講演1S1450 (2006).

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