近年,複数の金属原子を中心に持つ多核金属錯体は多様な物性から注目されており,その中でも中心金属が銅で形成された錯体は生物内部での生体無機反応や分子磁性などの関連から盛んに研究が行われています. 分子磁性に関しては,銅の多核錯体においてCu(II)の持つS = 1/2のスピンによる量子的なスピン現象,とりわけスピンフラストレーションに関連した現象は高い興味が持たれています. スピンフラストレーションとは,反強磁性相互作用が働くスピン系において古典的なスピン配置では安定構造が見出せない状態で,古くから理論研究の対象となってきた問題です. しかしながら,実験的事実の不足から詳細については未解明も多く多角的な実験が求められています. 3核錯体中で銅イオンによって作られる三角構造は,多核錯体中においてスピンフラストレーションを持つ代表的な構造ですが,近年,6 〜 8核に代表される錯体において,さらに複雑な構造が発見されています.
Fig. 1. (a) Schematic representations of core structures of the [Cu7 (μ3-Cl)2(μ3-OH)6 (D-pen-disulfide)3]. (b) Schematic illustrations for spin cages of [Cu7 (μ3-Cl)2(μ3-OH)6 (D-pen-disulfide)3].
Fig. 2. (Click to enlarge.) Temperature dependence of heat capacity of [Cu7 (μ3-Cl)2(μ3-OH)6 (D-pen-disulfide)3] under magnetic fields.
今回我々が注目した[Cu7 (μ3-Cl)2(μ3-OH)6 (D-pen-disulfide)3]は今野研究室で合成された7つの銅イオンをユニット内に有する多核錯体です. Fig. 1に示したように,ユニットでは銅イオンが酸素と塩素と結合し,2つのゆがんだ立方体構造を形成しています. また,7つの銅イオンのうちそれぞれ3つずつが2つの三角形を構成しており,残りの1つは2つの三角形の中心に配置しているため,三角錐が頂点で結合したような立体的なスピンユニットを形成しています. 錯体間の相互作用はほとんどなく,分子ごとに独立したスピンシステムを形成していますが,内部の磁気的相互作用は強磁性的相互作用と反強磁性的相互作用が多数混在しているため,磁化率測定による詳細な物性や基底状態の決定は困難です. このような複雑な系では相互作用を明確に定義できる理論的なアプローチが有効であるため,量子化学研究室の庄司,山口らによってスピン状態の計算が行われています. しかしながら,多数ある相互作用の種類を2種類に単純化する2J モデルや相互作用の種類を4つに限定する4J モデルでは,磁化率測定の結果を上手く再現することが出来ず,全ての相互作用を別々に定義するFull J モデルを考える必要があるなど基底状態の決定は容易ではありません. このような背景から我々は,電子スピンについての詳細な情報を得ることが出来る熱容量測定を行いました.
Fig. 2は磁場下・希釈冷凍機温度における精密熱容量測定が可能な熱容量測定装置を用いて測定した[Cu7 (μ3-Cl)2(μ3-OH)6 (D-pen-disulfide)3]の各磁場下での熱容量の温度依存性をCpT −1 vs T を用いてプロットしたものです. 0 T下の熱容量は低温に向けて大きく増大しますが,特にシャープな熱異常は見られませんでした. また,図示はしていませんが3Heクライオスタットに取り付けた熱容量測定装置を用いた0.6 K 〜 10 Kまでの測定でもシャープな熱異常は観測されていないことから,この物質においては長距離秩序が存在していないことが理解できます. また,Fig. 2に示したその他の磁場の熱容量では,0.5 Tの磁場を印加した状態では0.22 Kをピークトップとする比較的ブロードなピーク構造が見られ,さらに1 Tの磁場を印加した状態ではピークトップが0.51 Kにシフトしていきます. 一方,12 Tの磁場を印加した場合にピーク構造はほぼ完全に抑制され,熱容量は磁場を印加していない状態に比べて非常に小さくなります. 12 Tの磁場下では磁気熱容量は抑制され,格子熱容量が試料の大部分の熱容量を構成しているため,Fig. 2に示した温度領域において弱い磁場下では,電子スピン熱容量に比べて格子の熱容量は無視できる程度であると考えられます. ピーク構造が最もはっきりとみることが出来る0.5 T下の熱容量を用いて0.22 K付近のピークが持つエントロピーを概算するとおおよそ4 J K−1 mol−1であることがわかり,磁場によって現れたピークがスピンの基底2重項に関連したものであると理解できます. また,ピークトップ温度が0.5 Tで0.22 K,1 Tで0.51 Kと1 Tあたり0.5 〜 0.6 Kシフトをしていることから,基底状態のスピン量子数は1/2であると考えられます. これらの結果から,[Cu7 (μ3-Cl)2(μ3-OH)6 (D-pen-disulfide)3]のスピン基底状態が先に述べた2J モデルによって得られるS = 3/2の基底状態および4J モデルによって得られる基底状態から極めて近いエネルギー準位が存在するS = 1/2の基底状態ではなく,Full J モデルによって得られるS = 1/2の基底状態が実現していることを確認できました. 我々はさらに複雑な電子スピン系など理論的なアプローチでは考察が難しい系においても,こうした極低温熱容量測定を行うことによって物質のスピン基底状態など詳細な物性を追求していくことを目指しています.
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