メチル基の部分重水素化で出現する相転移
— 酢酸リチウム2水和物の場合 —

熱物性に顕著に現れる量子効果として,昨年の本レポート No. 27 (2006年) (研究紹介7) ではメチル基のトンネル回転を取り上げ,酢酸リチウム2水和物で測定された低温熱容量の結果の一部を紹介しました. その量子力学的描像は,メチル基を重水素化することで古典的な描像へと移行することになり,結果として重水素誘起相転移が出現するというものです. さらに,メチル基を部分的に重水素化すれば,その対称性を低下させることになり,そのことが相転移に大きな影響を及ぼすことを示しました. 今回は,酢酸リチウム2水和物で得られた低温熱容量の全容を示し,その転移エントロピーからメチル基の配向の乱れについて議論したいと思います. なお,もうひとつの例である4-メチルピリジンの場合については,本レポートの研究紹介15に解説があります.

4種類の試料 (CH3COOLi · 2H2O, CH2DCOOLi · 2H2O, CHD2COOLi · 2H2O, CD3COOLi · 2H2O) はいずれも,結晶水の量を注意深く調製したものを用いました. 元素分析および熱重量分析を行った結果も,これらの試料の組成について理論値からの有意なずれは検出されませんでした. また,重水素化合物の同位体置換率については95%以上と見積もられています. 熱容量測定は,5 K – 300 Kの温度域で断熱型熱量計を用いて(試料量は1.2 g – 1.5 g),0.35 K – 30 Kでは緩和型熱量計(PPMS)を用いて(試料量は2.6 mg – 7.0 mg)行いました.

Fig. 1 Fig. 1. (Click to enlarge.) Low temperature heat capacity of lithium acetate dehydrates.

Fig. 2 Fig. 2. (Click to enlarge.) Entropy of lithium acetate dehydrates at low temperatures.

Fig. 3 Fig. 3. (Click to enlarge.) Eighteen possible orientations of the coupled methyl groups for the partially deuterated lithium acetate dehydrate (CHD2COOLi · 2H2O) in the high temperature phase.

すべての試料について176 Kでシャープな熱容量ピークが観測されましたが,これは結晶水に起因するものと思われます. 今回注目する低温域の熱容量を Fig. 1 に示します. 極低温域では,各試料はそれぞれに特異な振舞いをしています. −CH3結晶では,プロトンの核スピン変換に要する時間が低温で長くなることによる凍結現象が,ガラス転移として観測されました. これに対し−CD3結晶では,17 Kをピークとする美しいラムダ型の相転移が観測されました. 部分的に重水素化した−CH2D結晶および−CHD2結晶でも,特異な熱異常が観測されています. なお,−CH2D結晶では断熱型熱量計によって6 Kに極めて鋭いピークが観測されたのですが,粉末試料をペレットに成形して行ったPPMSでの測定では検出されませんでした. いずれにしても,複雑で顕著な部分重水素置換効果が見いだされたのです.

Fig. 2 に0 Kからの累積エントロピーをプロットしました. これには格子振動による寄与が含まれていますが,それは重水素化によってほとんど変化しないと考えられますから,十分高い温度(たとえば30 K)での−CH3結晶を基準としたときの過剰エントロピーに注目します. それは,−CD3結晶で(1/2)Rln2 (= 2.88 J K−1 mol−1) ,−CH2D結晶および−CHD2結晶で(1/2)Rln18 (= 12.02 J K−1 mol−1) に近い値を示しています. また,−CH2D結晶については,(1/2)Rln6 (= 7.45 J K−1 mol−1) でステップがあるように見えます. これらのエントロピー値をメチル基の乱れに関係づけて説明したいわけです.

この物質の結晶構造については,すでに中性子回折測定が行われており,結晶中で隣接分子のメチル基が互いにギアが噛み合った構造の存在が指摘されています. しかも,転移の高温側では2種の配向をとり,その間で配向は完全に乱れており,低温でそのうちの一つに秩序化することがわかっています. このようなメチル基の coupled rotor モデルで配向の秩序−無秩序転移を考えれば,転移エントロピーとして(1/2)Rln2 = 2.88 J K−1 mol−1が予想されます. この値は実測値とよい一致を示します. 同様の解析を部分重水素化物についても行うと,この場合はメチル基が3回対称を失っているため,転移の高温側で合計18 (=3×3×2) 通りの配向の乱れが考えられ(Fig. 3),(1/2)Rln18 = 12.02 J K−1 mol−1の転移エントロピーが予想されます. これも実測値とよい一致を示します. このように,部分重水素化物が大きな相転移エントロピーをもつのは,メチル基の対称性の低下に起因するものなのです. このことは当然のことながら,実際例を目の当たりにすると驚かされます. ところで,−CH2D結晶で見られたステップは,この18通りの配向の内,6通りだけが先に(低温ですでに)乱れることを示しています. これも非常に興味深い点です.

今回得られた以上の結果を解釈すれば,−CH3結晶ではメチル基の回転について量子力学的な描像(すなわち,メチル基のプロトンは非局在化している,あるいはトンネル回転している)を必要としますが,メチル基に重水素を1つでも導入すれば古典的な描像へと一気に移行し,低温で秩序状態が実現されるというわけです. このように部分重水素化により誘起された相転移の機構は,二量体化したメチル基の配向の秩序−無秩序という古典的な描像で完全に説明できることがわかりました.

本研究は,フランスCNRSのFillaux博士らとの共同研究です.

(稲葉 章)

発 表

稲葉 章,F. Fillaux,日本化学会第87春季年会(吹田),1G3-13 (2007).
稲葉 章,鈴木 晴,F. Fillaux,第1回分子科学討論会(仙台),1A16 (2007).
A. Inaba, A. Cousson, and F. Fillaux, the 62nd Calorimetry Conference (Hawaii, USA) oral #18 (2007).
稲葉 章,A. Cousson,F. Fillaux,第43回熱測定討論会(札幌),1C1410 (2007).

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