構造熱科学研究センターへの期待

大阪大学名誉教授   千原 秀昭

1979年4月化学熱学実験施設の創設以来30年,3回にわたる「時限」を乗り越えて構造熱科学研究センターが発足したことは,創設の際の関集三先生のご苦労を思い出すと,まことに感慨深いものがある.

準備段階から4年に近い年月を費やして,理学部化学教室での承認から,文部省との折衝まで4–5段階の手続きを経て設立にこぎつけたときには,関先生は定年でご退官という皮肉で大変残念なスタートであった. その各段階で, “熱力学は過去の学問” で,いまさら研究することがあるのですかという質問に,根気よく何回でも説明の労をいとわれなかった先生の “執念” がこのセンターには染み込んでいる. 特に,人がいなければ研究はできないという当たり前のことを納得してもらうために,最後には理学部長と激しいひざ詰め談判をし,阪大本部から,定員1名を “借りて” 出発という離れ業までとび出した.

私はいわばつなぎの役目でたいした貢献はできなかったが,その後の歴代の施設長(センター長)が全力投球で,この世界に例を見ない施設のアクティヴィティーを上げることに力を尽くされたことが,国際的な知名度を上げ,諸外国であいついで化学熱力学の研究室が閉鎖されるという逆風の中でも,時限の制度を乗り越えて発展する原動力となった.

「時限」というのは当事者であるセンター長にとっては,施設の継続のために,本業の研究に集中したい時間を奪い,長期的な計画を立てにくくする “憎むべき” 制度であるかもしれないが,結果としては,その都度いろいろな意味で進化してきた. そして,進化の底流にある考え方は30年間一貫して変わっていない. それは熱物性を重視する仁田先生の考え方から発するもので,構造あるいは分子とのリンクを中心におくものである. 熱力学は過去の学問という誤った意識を見直してもらう啓蒙的な狙いから,関先生との合作で「構造熱力学と熱物性」という解説記事を「科学」に載せたのは1962年だったが(1),構造という語が今回初めてセンターの名称に現れたのは,バイオサイエンス全盛の時代に特に意義深いものがある.

最近は研究方法の進歩が激しく,1個の分子のスペクトルや,分子の姿勢を精密に制御して反応させる分子線技術,さらには1個の原子まで識別できるイメージングなど,いわゆるナノサイエンスとバイオの分野で毎日のように新しい成果が報告される. 材料の分野でもナノだけでなく,非ドルトン化合物や新種の包接籠が報告される. マクロよりもミクロに目が向くことが多く,競争的研究費もそのような分野に向きがちである. しかし,どのような現象,物質を扱っても,熱力学的な側面を無視することはできず,はやい話,熱力学の法則に違反することはできないから,ものをつくるには,熱力学的な検討が欠かせないし,熱測定以外の方法では得られない知識・情報もある. そのような啓蒙活動もセンターの重要な役割になるのではないだろうか.

X線結晶解析が最近は日常的に行われて,方法としてはほとんど確立した. 昔は結晶解析法が研究対象である時代があったが,いまは市販の装置で “素人” でも構造決定が一通りできるようになった. 熱測定の分野でも似た状況はあるが,ここでは最先端の測定と市販の機器によるものとの間には精度,確度の点で雲泥の差がある. 高度の熱測定はまだ専門技術に属している. とくに熱のかたちのエネルギーのデータが必要とされ,またそれによって科学が進歩するような対象が,生命科学,物質科学などどの分野にも広がっている. センターが頼りにされる第一の使命であろう.

制度,人,予算,・・・,どの面でも困難が山のようにあることは部外者にも容易に推察できるが,30年に及ぶ職員の皆さんの努力と成果が,積み上げたレポートに詰まっている. 世界の化学熱力学研究者から羨望され,また依拠する施設と認識されているこのセンターはわが国が誇れる数少ない研究機関である. 今後の一層の発展を祈念している.

(Hideaki Chihara, Professor Emeritus of Osaka University)

  1. 関 集三,千原 秀昭,科学 32(4),193–199(1962)
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