古くから「十年一昔」と申します. 名実ともに十年を一区切りとしてセンター発足以来3度目となる時限の壁を乗り越え,無事に新たな一歩を踏み出されたことを心よりお祝い申し上げます. 稲葉センター長を初めとするスタッフ一同の研鑽はもとより,関係各位のご理解やご尽力が無ければ成し得なかったことで,関わってきた人間の一人として感謝の念に堪えません. 振り返ってみますと,関先生が定年退官の置き土産として遺して下さった化学熱学実験施設の船出は1979年のことですから,「光陰矢の如し」の諺が実感として受け止められます. 発足当時,関連研究者は力を合わせて化学教室初めての付属実験施設を盛り立てていこうという強い意欲に溢れていたことを思い出します.
初代専任教授として建物の設計図を持ちながら大学本部の施設課と交渉の日々を過ごしたのが,まるで昨日のことのように思い返されます. 事務方の強力なサポートも,大きな精神的支えになりました. 最も気を使ったのが極低温実験室の設計で, 3He–4He 希釈冷凍機を使って得られる mK の極低温域になると機械的振動の除去は勿論のこと,テレビなどのマイクロ波の侵入による温度上昇を防ぐために部屋全体のシールド対策を施すことでした. 試運転で容易に最低到達温度が 50 mK を下回った時には,さすがに装置の威力を感じました. より低い温度域へという目標には,大変明るい兆しでした. 他方,より高い温度域への目標は,材料難から決して容易ではありませんでした. 高い確度を保ったまま,より少ない試料を測定対象にするというミクロ化の目標は,時間をかけて徐々に達成されていきました. 学生諸君も目的達成のために,良く頑張ってくれたと思い返されます.
翌年行なわれた開設式典には当時の山村雄一総長,金森順次郎学部長,日本熱測定学会森本哲雄会長はじめ多数のご来賓から阪大独自の研究施設の出発を記念した祝辞,激励のお言葉を頂きました. 関先生からは施設の誕生を可能にした関係各位への謝辞,伝統の中にこそ革新が生まれることの意義,個性ある研究者が自由な雰囲気の中で研究を進めて欲しいとの強い要望が述べられました. サントリーKKからの差し入れのビールで乾杯の後,分子科学研究所長倉三郎所長,本施設の設置要望書を作成下さった日本熱測定学会大塚良平元会長らからも暖かい励ましのスピーチを頂戴して,新しい歩みへの決意を新たにした次第です. また,フランスの Microcalorimetry Research Center, 姉妹研究室の関係にあったスウェーデン・ルンド大学化学センター熱化学研究室,モスクワ大学熱力学研究室など,諸外国の熱力学関係機関からの祝電やメッセージも披露されました.
翌年,関先生とご一緒にファラデイ討論会に招待されて知己が増え,また施設発足が契機となったせいでしょうか,諸外国から共同研究の申し入れが急に増えました. 中国熱測定学会を代表して,北京の科学院化学研究所の胡日恒教授からは日中間の研究交流を進めたいとの丁重なお手紙を頂きました. 初めての中国訪問でお会いすると,誠実を絵に描いたような方でした. やがて両国間の人物交流だけでなく,日中合同熱測定シンポジウムの定期的開催へと発展していき,現在も国際規模に拡げて続いています. フランスからは CNRS 国際協力事業部長の Mercouroff 博士の訪問を受けて日仏間の共同研究推進を要請され,しばらくしてボルドー大学固体化学研究所から Tressaud 教授が来日されました. イギリスからは British Council の Richards 博士が来訪され,これまた日英間の共同研究推進の要請がありました. いずれも日本学術振興会(JSPS)との間に結ばれた協定に従った予算の裏付けがあるとのことで,フランスからはパリ南大学の Figuiere 博士が派遣研究員第1号として,またイギリスからは Exeter 大学の Leadbetter 教授が調査委員として来日されました. 英国との間にはその後 British Council からの予算を頂いて大掛かりな共同研究に発展し,若い人達が頻繁に中性子回折のために Rutherford Appleton Laboratory での実験に参加されました. 相転移によって結晶構造や分子運動がどのように変化するか?を明らかにするのが目的で,熱測定で得られたエントロピー的側面と併せて詳細な議論が可能になったことは大きな喜びでした. 物質の構造とエネルギーの両側面を解明するという仁田先生の哲学が多少なりとも実現できたことで,少しは泉下の先生に喜んで頂けたものと信じております.
「科学に国境は無い」という素晴らしい名言があります. しかし,研究を行なうのは生身の人間ですから,「科学者には国境がある」という事実も見逃す訳にはいきません. 言語や食生活は文化の大きな要素であり,従って異文化の下で育った各国の研究者にはそれぞれ特有の学問的遺伝子を備えていて,その違いは研究テーマの選択や思考の過程で顕になることがあります. その意味で,大袈裟な表現をすると国際的共同研究とは異文化の衝突という側面をもつことになり,切磋琢磨という名の摩擦を通して研究者相互の成長を促すことが可能になります. 分子熱力学センター発足の時から客員研究者を外国から呼んで共同研究を進めることが予算の裏付けを得て制度化され,いろいろの国から次々に新しい血を吹き込んでくれるようになりました. 実験熱力学という狭い分野を超えて思考の範囲が拡大されることは,思いもしなかった新しい発展に繋がる可能性を高めてくれることでしょう. この制度を旨く活用して,魅力的な研究対象を飛躍的に拡大して下さることも期待しております.
それと同時に,次世代を担う若き学徒の育成も研究機関の持続的発展を考える上で大切な要素です. 熱力学を開拓した欧米には,綿々と伝統が続く幾つかの熱研究センターがあります. 最も歴史が古いのはモスクワ大学熱力学研究室で,Luiginin 教授が創設して今年は120年目になります. 2番目に古いのは Swietoslawsky 教授が設立されたポーランド物理化学研究所の中の熱化学研究室で,間もなく100年目を迎えます. 何れも,立派な後継者が次々に育てられてきた明白な証しでもあります. 仁田研究室の化学熱力学的研究は戦争中の中断期を入れても未だ70余年に過ぎません. 歴史を重ねながら10年ごとに年齢が0歳にリセットされるのが時限制の良いところで,緊張の糸が緩むことがありません. 嘗て米国を中心として低温熱容量測定から純物質のエントロピーを精力的に決定していた研究室は,時代の移り変わりと共に何時の間にか姿を消してしまいました. 共同研究を申し入れる方の多くは,エントロピーのデータを求めておられるのです. 幸い,エネルギーとエントロピーの両方を実験的に求めることを設立当初から目指してきましたので,この点でも気が付いてみると世界でユニークなセンターになり,この特徴はこれからも続くものと期待しております. 時限をクリアした途端に次の時限が気に懸かるもので,緊張感の持続こそが新しい発展への原動力となります. センターの新しい門出をお祝いすると同時に,オンリーワンのユニークな世界を築き上げられますよう,心より念願する次第です.
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