構造熱科学研究センターの発足を祝して

大阪大学名誉教授   松尾 隆祐

構造熱科学研究センターのスタートをお祝い申し上げます. 稲葉章センター長・センター教職員の皆様,運営委員の先生方のご努力と,化学専攻・高分子科学専攻の皆様,理学研究科長と研究科教職員ならびに事務部門の皆様のバックアップによって,ここに新たな門出が実現されました. これは,センターがこれまで研究・教育全般にわたって行ってきた活動が,今後さらにサポートするに値するものとして高く評価された結果です. 院生,学生のみなさんは,センターで学び,研究することによって,学部教育・共通教育時代から,さらには,おそらく初等中等教育の時代から抱いてこられた科学への興味を,先生方のご指導のもとに,また外国人客員研究者の方々との交流を通じて,はじめて自分の研究テーマとして具体化され,そのなかで多くの経験と知識と判断力を得られたことでしょう. これらすべての活動が新センターとして結実したことをお慶び申し上げます.

化学熱学実験施設(1979年),ミクロ熱研究センター(1989年),分子熱力学研究センター(1999年),そして今年はじまった構造熱科学研究センターと素晴らしい進化を遂げてきました. その出発点には阪大化学熱力学研究の創始者関集三先生の熱力学への,そして科学全般への情熱と,科学の進歩に対する長期的なものの見方があります. 関先生は新しい実験装置のアイディアの重要性を説かれ,また実験試料の純度や実験操作の細部にいたるまで細心の注意を払われました. このような考え方は菅宏先生,徂徠道夫先生によって受け継がれ,また崎山稔先生の成し遂げられた研究にもきわめて明瞭に表れています. そして今後とも実験的研究の基本として受け継がれるでしょう. 「神は細部にあり」とは実験的研究の現場を言うことばだと思います.

関集三先生,菅宏先生の教えを永く受けてきたものの実感として,熱測定法による研究には3つの大きな喜びがありました. (1)物質のすべての自由度が測定対象になること,(2)精度・確度の点で実験装置の性能が原理的に可能なレベルにどこまで近づいているかを実感しながら実験できること,(3)熱力学を構成する温度やなかでもエントロピーの概念がきわめて抽象的,一般的であることの3つです.

(1)が喜びであったのは,分光学や構造解析など物理化学の他の分野の結果を利用することによって熱測定データがよく理解できると感じられたからです. 後々,中性子散乱と熱測定が良き組み合わせとなりましたが,これもその表れだと思います. また,新しい構造熱科学研究センターの名には結晶学者仁田勇先生の響きがあります. このように,熱測定と他分野の協力の重要性については,多くの方が同様の考えをもっておられると思います. 他分野のデータの利用は多くの場合手間のかかる計算を必要としますが,計算手段の進歩によって,それも逆に大きな喜び,データ解析の楽しみとなっています. (2)は微小電気信号を如何に正確に測定するかということですが,往時の自作の装置において,その要点は,直流測定では回路中の迷起電力を避けること,交流測定ではジョンソンノイズにまでノイズレベルを下げる努力でした. ノイズ源探しはまさに「悪魔は細部にひそむ」でした. 最近の装置ではノイズ除去の技術が格段の進歩をしていると思います. しかし,装置の性能をぎりぎりまで出しつくす努力と達成感は今後も実験家の大きな喜びでありましょう. (3)につきまして,関先生の時代に Buchdahl の The Concept of Classical Thermodynamics を研究室で輪読して,カルノーやクラウジウスとは違うカラテオドリーやボルンの抽象的な第二法則の構成を学びました. Fitts の Non-equilibrium Thermodynamics の輪読も新しい経験でした. これはガラス転移などの不可逆変化理解の基礎として関先生と菅先生が考えられた輪読でした. ガラス転移と非平衡状態はその後大きい分野に発展しました. 実験家 M. McGlashan の大著 Chemical Thermodynamics は菅宏先生のもとで輪読し,熱力学体系の精緻な論理を学んだ一方で,McGlashan がエントロピーの確率解釈を毛嫌いするのを奇妙な思いで読みました. 熱力学の論理構造の面白さは,最近の田崎晴明氏の「熱力学」(2000)や清水明氏の「熱力学の基礎」(2007)に見られるように,今も理論家たちの興味を引いています. このように様々の定式化が試みられるのは,熱力学の奥深さの反映であろうと思います.

顧みますと,1965年に第1回熱測定討論会が大阪大学中之島松下講堂で開かれました. 関先生,向坊先生,益子先生,藤代先生,小野先生,神戸先生,小沢先生らが準備に参画され,阪大では千原先生,菅先生,崎山先生たちが現地で運営にあたられました. 討論会初日が始まったとき,はじめての討論会が順調にスタートしたことで急に皆の緊張が解けたことが思い出されます. 私は院生として参加しましたが,熱測定の技術的なこと,理論的なこと,全く知らない分野の研究の意味するものなどを理解しようと一所懸命でした. 今年2009年9月には首都大東京で第45回熱測定討論会が開催され,世界でも永い伝統と継続性を誇る学会となりました. 阪大の熱測定研究はこの討論会の歴史とぴったり重なります. 今年の討論会でも構造熱科学研究センターと中澤康浩先生のグループによって多数の研究結果が報告されました. 先生方の研究報告とともに,学生・院生のみなさんの発表が多数ありましたが,これは研究活力を高く維持してゆく上でたいへん大事なことだと思います. 「阪大化学熱学レポート」にも若い研究者によって様々の研究の解説がなされています. これらの経験をもとに,学生・院生のみなさんは自分の科学を確立され,新しい分野を開かれることでしょう. 構造熱科学研究センターのますますの発展を心から願っております.

(Takasuke Matsuo, Professor Emeritus of Osaka University)

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