研究紹介 12

重水素化した BEDT-TTF 系三角格子の
ギャップレスなスピン励起

電気伝導や磁性などの電子物性の担い手が有機物で構成される有機伝導体は,有機物特有の多彩なバリエーションと異方的な電子軌道による低次元性を持つ系です.ドナー分子BEDT–TTFと対イオンであるアニオンXとの2:1の電荷移動塩である (BEDT–TTF)2Xは,有機物としては高い10 K級の超伝導転移を示す物質もあることから注目されています.また,この物質群では,アニオンXの変化により超伝導,反強磁性,電荷秩序といった多彩な物性を示すことが知られています.特に, κ–(BEDT–TTF)2Cu2(CN)3は,量子スピン液体状態という実現例が極めて少ない特殊な状態を実現することから多大な注目を集め,多くの研究が行われています.我々は,これまでに, κ–(BEDT–TTF)2Cu2(CN)3の極低温熱容量を測定することで,量子スピン液体の実現と基底状態からのギャップレスな励起を確認してきました.しかし,詳細な励起構造や量子スピン液体が実現する条件など,詳細については未解明な部分が多くさらなる研究が望まれています.

Fig. 1 Fig. 1. The schematic figure of BEDT–TTF molecules. The hydrogen atoms in ethylene group in BEDT–TTF molecule have been substituted by deuterons.

Fig. 2 Fig. 2. CpT −1 vs T2 plot of hydrogenated κ–(BEDT–TTF)2Cu2(CN)3 samples and a deuterated sample. There is no considerable difference in heat capacities between hydrogenated sample and deuterated sample.

Fig. 3 Fig. 3. CpT −1 vs T2 plot of the deuterated κ–(BEDT–TTF)2Cu2(CN)3 sample obtained in a temperature range between 0.8 K and 7 K.

一方,弱い分子間力しか働かない有機導体では,大きな圧力効果が期待できます.たとえば,同じ 型の κ–(BEDT–TTF)2Cu[N(CN)2]Clは,数100 MPa程度の物理的圧力で反強磁性転移から超伝導・金属へと基底状態が劇的に変化します.また,重水素置換による κ–(BEDT–TTF)2Cu[N(CN)2]Brの超伝導–絶縁体転移など,BEDT–TTF末端のエチレン基を重水素に置換することによる(Fig.1),化学的圧力による負圧効果によっても圧力効果がみられます.この重水素置換による化学的圧力は,連続した圧力変化の印加は不可能ですが,常圧において圧力効果を確かめられる有効な手法です.

今回我々は,BEDT–TTF分子末端のエチレン基の水素を重水素に置換した κ–(BEDT–TTF)2Cu2(CN)3試料の熱容量を測定することで,量子スピン液体の圧力効果を調べました.

κ–(d8:BEDT–TTF)2Cu2(CN)3試料は,末端のエチレン基をすべて重水素に置換したd8–BEDT–TTFをドナーとして用いて,電解法により作成しました.これにより,1 mm×1 mm×0.1 mm程度の薄片状の黒い結晶が得られました.熱容量測定は,当研究室で自作した緩和型熱量計により行いました.測定には10 piece程度( 200 μg相当)の結晶を用いて0.7 K < T < 8 Kの温度範囲および0 T < H < 8 Tの磁場下で行いました.

Fig.2は,測定によって得られた κ–(d8:BEDT–TTF)2Cu2(CN)3(以下D体)の熱容量の温度依存性をCpT −1 vs T2プロットで示したものです.また,比較のために,過去に測定した κ–(h8–BEDT–TTF)Cu2(CN)3(以下H体)の温度依存性も同時にプロットしています.Fig. 2に示すように,D体の熱容量には顕著に熱容量の温度に比例する項(T–linear項)が観測されました.また,図にプロットした温度域では,熱容量の絶対値およびT–linear項の係数の双方において,H体とD体で顕著な違いは観測されませんでした.よって,D体でみられたT–linear項の存在は,H体と同様にD体でも量子スピン液体が実現していることを意味するものであると理解できます.また,この結果はKurosakiらによって行われたガス圧力下での実験とも符合するもので,わずかな圧力変化では量子スピン液体状態は変化・破壊されていないことを示すものです.

Fig.3は,8 K以下のD体の熱容量の温度依存性をCpT −1 vs T2プロットを用いて示すたものです.8 K以下では,相転移を明示する顕著なピーク構造はみられず,前述した量子スピン液体の実現と一致します.また,H体で5.7 K付近に見られていた熱異常はややブロードになっています.この結果は,高温側においては化学的圧力効果が存在する可能性を示唆するものですが,重水素化による格子熱容量の変化の可能性なども考えられるため,さらなる測定が必要です.

以上のように,重水素化した κ–(d8:BEDT–TTF)2Cu2(CN)3の熱容量を測定した結果,量子スピン液体状態はわずかな圧力では破壊されないことが確認できました.一方,高温側においてみられたH体との差異は,さらなる追及により量子スピン液体の詳細が明らかになる可能性を持っている重要な結果です.今後は,さらに試料依存性まで含めた測定などを丹念に行っていくことで,量子スピン液体の全貌の解明を目指していきます.

発 表

S. Yamashita, T. Yamamoto, and Y. Nakazawa, Physica B, to be submitted.

(山下智史,山本 貴)

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