液晶相を示す有機化合物の多くは,比較的硬いコア部分に柔軟な末端鎖が付いた棒状の分子構造をもちます.そこで熱力学的には,硬いコア部分が互いに整列しようとするエンタルピー項と,末端鎖が乱れようとするエントロピー項の兼ね合いで,液晶相をはじめ豊富な結晶多形が出現するものと解釈できます.実際,末端鎖を少し変えると,液晶相だけでなく結晶多形の状況も大きく変化します.本レポートでも,液晶物質として有名な化合物5CBや8OCBの末端鎖に枝分かれ構造を導入すると,@別の種類の液晶相が現れたり(もしくは液晶相を示さなくなったり),A等方液体や液晶相のガラス状態が容易に形成されたり,B準安定結晶相が現れたりすることを報告してきました(No. 23 研究紹介13,No. 26 研究紹介11).今回は,8OCBのアルコキシ鎖にもうひとつ酸素原子を導入した6O2OCB (Fig. 1) の相挙動に注目して,断熱型熱量計による精密熱容量測定(5 K ~ 320 K)を行いました.末端鎖に–OCCO–という折れ曲がり構造を導入した場合に,どのような相挙動が見られるかというのが興味の対象です.この研究も,5*CBや8*OCBの研究と同様にポーランドのクラクフ核物理研究所との共同研究です.
Fig. 1. Molecular structure of 6O2OCB.
Fig. 2. Molar heat capacity of 6O2OCB. The ordinate is for the phase I. The results for the other three phases are successively shifted upward by 100 J K−1 mol−1.
Fig. 3. Gibbs energy plotted as G/T2 against T for 6O2OCB. The Gibbs functions of the phase I and II cross each other at TX = 266.75 K.
Fig. 2に熱容量の結果をまとめます.試料を室温の等方液相から比較的速く冷却 (~ −10 K/min) すると,等方液体のガラス状態が得られます.この相を昇温するとガラス転移 (Tg ~ 210 K) を経て安定化が起こり,スメクチック相に転移します.この相もガラス転移 (Tg ~ 223 K) をもち,昇温すると大きな発熱を伴って結晶相に安定化します.結晶相は2種類あり(準安定結晶,安定結晶),ここでは融点の高い (Tfus = 296.79 K) ものを“phase I”,低いもの (Tfus = 293.08 K) を“phase II”と呼びます.phase Iは,試料をいったん冷却してから295 Kでアニールすることで得られ,phase IIは,等方液体を非常にゆっくり (~ −0.03 K/min) 冷すことで得られました.これはphase IIの結晶核が生成する温度がphase Iより高いことを意味します.また,phase IIは154.58 Kに小さな相転移を示し,低温側でphase IIIになります.このような相挙動(とりわけ結晶相の挙動)は8*OCBの場合とよく似ており,末端鎖の–OCCO–折れ曲がり構造が,相挙動に対して枝分かれ構造と類似の影響を及ぼすことが示唆されました.
ところで,phase Iはphase IIより融点が高く,融点付近ではphase Iのほうが(熱力学的に)安定ですが,融解エンタルピーおよび融解エントロピーはphase IIのほうが著しく大きいことがわかりました.これは2つの結晶相の安定性がどこかの温度で入れ替わるエナンチオトロピックな系でしばしば観測される事実です.そこでphase Iとphase IIの熱力学関数を計算したところ,確かに266.75 Kでphase Iとphase IIのギブスエネルギーが入れ替わっていました (Fig. 3).しかし面白いことに,速度論的な理由によって,phase IIからphase Iへの相転移は観測されませんでした.この結果も8*OCBの結果と類似しています.一方,エンタルピーおよびエントロピーはphase Iのほうがphase II (phase III) より大きく,この傾向は極低温まで保持されます(ただし,極低温ではエントロピー差はほぼゼロになります).結晶相の構造はまだ明らかになっていませんが,phase Iとphase IIIの低温熱容量を比べるとphase Iの方が大きく (Fig. 4),phase Iがphase IIIより密度の小さな結晶相であると思われます.さらに,phase IIのパッキングもphase IIIとあまり変わらずphase Iよりも密であるとすれば,温度上昇とともにエントロピー項によってphase Iがphase IIよりも安定化するものと解釈できます.そのエントロピー項を担っているのは末端鎖の乱れです.8OCBのような比較的長い末端鎖をもつ液晶物質は温度変化とともに複数の液晶相(ネマチック相,スメクチック相)を示しますが,これは温度(つまり分子運動の激しさ)が変化したときに熱力学的にバランスの取れる構造が複数存在することを意味します.6O2OCBでは,同じ効果が結晶相に及んだものと考えることができます.面白いのは,いったん低温で安定な結晶格子を組んでしまえば,昇温によって(エントロピー項によって)ギブスエネルギーの相対関係が逆転しても平衡相転移を示さず,そのまま融解してしまうことです.
H. Suzuki, A. Inaba, P. M. Zieliński, J. Ściesiński, and M. Massalska-Arodź, the 2nd International Symposium on Structural Thermodynamics (Toyonaka), P-12 (2010).