研究紹介 8

部分重水素化メチル基の配向秩序化を振動分光で探る
— 2,6–ジクロロトルエンの場合 —

われわれはこれまで,さまざまな分子固体を対象とした低温での精密熱容量測定によって, 部分重水素化したメチル基の配向が秩序化するという現象を見いだしてきました(本レポートNo. 29 研究紹介15他). その秩序化には,重水素誘起相転移を伴う協同的なものとは別に,ショットキー型の熱容量として観測されるものがあります. それは,部分重水素化によって対称性が低下したメチル基がとりうる3種の配向の間で,実際には振動の基底状態が異なることに起因するもので, これを3準位系のモデルで説明してきました.この情報は,固体中でメチル基が感じる分子内および分子間の相互作用を強く反映したものであり, このような構造情報が熱測定で得られるのは大変興味深いことです.しかしながら,結晶構造が未知な物質では特に,もっと詳しい構造情報が必要となります. 例えば,結晶中で等価なメチル基は1種類とは限らないわけです.そこで今回は2,6–ジクロロトルエンを取り上げ, 赤外分光法によって部分重水素化メチル基の配向現象を探ることにしました.

Fig. 1 Fig. 1. Infrared absorption spectra obtained at 6 K for 2,6–dichlorotoluene and its methyl–deuterated analogs.

Fig. 2 Fig. 2 Temperature evolution of the IR spectra obtained for C6H3Cl2—CH2D..

Fig. 3 Fig. 3. Temperature dependence of the scaled intensity of four peaks obtained for C6H3Cl2—CH2D (see Fig. 2), which is consistent with the occupancy for the three-level energy scheme obtained from the Schottky heat capacity (solid curves).

赤外分光測定は,2,6–ジクロロトルエンとそのメチル基部分重水素化物3種について, 波数域400–4000 cm−1,温度域6 K—100 Kで行いました.液体(室温)のスペクトルによれば,高波数の伸縮振動領域は単純で, ベンゼン環に付いたC—H伸縮振動(3062 cm−1)の他に,メチル基由来の逆対称(縮退)伸縮振動(2928 cm−1)と全対称伸縮振動(2861 cm−1)が観測されるのみです. ここでは固体を対象としており,部分重水素化によってスペクトルは複雑になるので,当面はこの波数域に注目してスペクトルの温度変化を追跡しました.

Fig. 1は6 Kで得られた吸収スペクトルで,2つの波数域 (a) と (b) に分けて比較したものです. C6H3Cl2–CH3では,領域 (b) 内の高波数側にメチル基の逆対称伸縮振動(3001, 2971, 2957 c−1), 低波数側に全対称伸縮振動(2915, 2894 cm−1)が観測されています.各モードの分裂は,固体中では等価なメチル基が2種以上存在することを示唆しています. これらのピークはメチル基を全部重水素化することによって, C6H3Cl2–CD3では逆対称伸縮振動(2249, 2215, 2198 cm−1)および全対称伸縮振動(2139, 2114 cm−1)として, それぞれが対応して低波数側にシフトして観測されていることが分かります.

さて,メチル基を部分重水素化すると話は(したがってスペクトルは)複雑になります. まず分かることは,C6H3Cl2–CH2DでもC6H3Cl2–CHD2でも,両方の領域(aおよびb)にピークが存在していることです. ピーク位置については単純ではありません.例えば,重水素化してもピーク位置がほとんど変化しないように見えるモードでは, デューテロンがほとんど静止していて,主としてC–H伸縮が関与しているものと思われます.

次に,温度変化に注目します.Fig. 2は,波数域2100–2250 cm−1におけるC6H3Cl2–CH2Dの吸収スペクトルの温度変化を示したものです. 2140 cm−1と2190 cm−1にそれぞれ1本,2210 cm−1には2本のピークが重なって見られます. いずれも–CH2Dの,主としてC−Dの伸縮振動が関与したモードと考えられます. 非常に面白いのは,2140 cm−1と2190 cm−1の2本のピークが温度低下とともに強度が弱くなる一方で,2210 cm−1のピークは逆に強度が強くなることです. そこで,これら4つのピークの面積強度を求め,その温度変化を追跡したのがFig. 3です.ただし,ここでは相対強度をスケールしてあります. そのスケールの仕方は,熱容量測定によって決定した3準位系モデル(挿入図)からボルツマン則を仮定して得た各準位の占有率を参考にしたものです. ここで,その温度依存性が見事に再現されていることが分かります.温度変化を示す吸収ピークは他にも多数あります.あるものは温度低下によって強度が増し, あるものは次第に消滅しています.もっと詳細な検討を行えば各モードが特定でき,具体的に各メチル基でどの配向が最安定かを特定できるかもしれません. 熱測定と分光測定という異なる手法により得られた情報を持ち寄ることにより,それぞれ単独では辿り着けなかった結論を導くことを目指しています. IR測定では,分析測定室の大濱光央氏に大変お世話になりました.

(鈴木 晴,稲葉 章)

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