研究紹介 19

マイクロチップを用いた
スピン液体物質の微小単結晶熱測定

様々な電気的性質や磁気的性質を示す分子性の伝導体では,有機分子のもつp–π電子からなる異方性の強い分子軌道や隣接した電荷同士のクーロン反発のために超伝導や反強磁性など色々な物性が発現します.分子性伝導体は百種類以上知られていますが,BEDT–TTFという分子からなる化合物は様々な分子配列をもち,バラエティーに富んだ物性を示します.その中でも型の配列をもつ物質群κ–(BEDT–TTF)2Xは,10 K超程度と有機超伝導体の中では高い超伝導転移温度を示し,現在も盛んに研究が行われています.ポリマー状のアニオン層を作るκ–(BEDT–TTF)2Cu2(CN)3は常圧で超伝導状態にはならないものの,量子スピン液体状態を基底状態にもつ数少ない物質として知られています.この物質には6 Kにその他のκ–(BEDT–TTF)2Xには見られないブロードな熱異常が見つかっています.この熱異常は熱測定により初めて指摘されましたが,NMR緩和率や熱伝導率など熱容量測定以外でも見られており,スピン液体状態を形成する前駆的な何らかの状態変化の存在を示していると考えられます.この熱異常は伝導面と垂直に磁場を印加してもほとんど変化しないことが知られています.しかし,水平方向の磁場に対する依存性はあまり調べられていません.そのため,この依存性についての情報も量子スピン液体状態の理解に必要なこととなります.また,BEDT–TTFからなるκ–型塩では分子の両末端にあるエチレン基の水素を重水素に置換すること(Fig. 1)で,超伝導体から反強磁性絶縁体に変化するといった化学圧力による大きな物性の変化が現れます.そのためκ–(BEDT–TTF)2Cu2(CN)3の水素体(以下h8–体)を重水素体(以下d8–体)に変化させることで,6 K熱異常の磁場に対する依存性がどのように変化するかを調べることは大変重要になっています.緩和法による両者の熱容量の詳細な比較は本レポートの2009年度研究紹介12でなされています.

Fig. 1 Fig.1. Molecular structures of BEDT–TTF and deuterated BEDT–TTF.

Fig. 2 Fig.2. Temperature dependence of heat capacity of κ–(h8–BEDT–TTF)2Cu2(CN)3 around 6 K obtained under 0 T and 7 T. The thermal anomaly around 6 K does not show any angular dependence in magnetic field direction.

Fig. 3 Fig.3. Temperature dependence of heat capacity of κ–(d8–BEDT–TTF)2Cu2(CN)3 around 6 K obtained under 0 T and 7 T. The overall tendency is identical with that of h8–sample.

重水素化した試料は量も少なくとても薄いため,前回の報告はたくさんのpieceを集めた試料での実験結果でしたが,単結晶1個で物性を明らかにする必要があります.そこで我々は以前から本レポート(2007年度装置の整備3,2008年度装置の整備2,2009年度研究紹介18)で報告しているチップカロリメータによって,h8–体とd8–体の熱容量やその磁場依存性の比較を行いました.μg級の薄い板状単結晶を微小チップにごく微量のApiezon N グリスを用いて貼り付け,直流電流のオンオフによって生じさせた矩形波を用いて試料の交流熱容量を測定しました.この際,研究室既設のスプリットマグネットとチップ(TCG–3880, Xensor社)の高い平面性を生かして結晶の伝導面と平行に7 Tの磁場を印加しました.また,磁場は3方向から印加し,磁場の印加方向に対する依存性についても測定を行いました.

Fig. 2はh8–体の,Fig. 3はd8–体の0 Tと7 Tでの熱容量測定の結果です.7 Tはそれぞれ45°ずつずらして3方向から磁場を印加したときの測定結果です.それぞれのデータが見やすいように適当な間隔ずつずらしています.Fig. 2とFig. 3のどちらにおいても,0 Tのグラフでは6 K付近に大変ブロードな熱異常が見られました.したがって,チップカロリメータによってμg級の結晶からその特異的な熱異常が確かに存在することを確認できました.d8–体の0 Tの測定結果においても6 K付近にブロードな熱異常が見られました.ピークの温度は両者であまり相違が見られませんでしたが,d8–体の方がややブロードになっているように見えます.続いて,磁場に対する依存性です.h8–体では0 Tと7 Tを比較すると,ピークの温度やピークの大きさもほとんど変化が見られず,磁場の印加方向に対する依存性もほとんど見られませんでした.d8–体でも磁場に対する依存性は同様な結果となりました.これら一連の結果は,緩和法の実験での結果を再現しております.

今回の測定では,チップカロリメータを用いてμg級の試料の量子スピン液体に伴う6 Kの熱異常の磁場に対する依存性について実験を行いました.κ–(BEDT–TTF)2Cu2(CN)3の量子スピン液体状態においては伝導面と平行に7 Tの磁場をかけても量子スピン状態はほとんど変化せず,磁場の印加方向にも依存しないということがわかりました.また,重水素化による化学圧力の影響もほとんど見られないことがわかりました.今後はTCG–3880をより改造したチップを用いるなどの改良を行っていきたいと考えています.

(村岡佑樹,中澤康浩)

発 表

Y. Muraoka, S. Yamashita, T. Yamamoto, and Y. Nakazawa, the 21st IUPAC International Conference on Chemical Thermodynamics (Tsukuba), OP-5P-21 (2010).

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