大阪大学大学院 理学研究科 化学専攻

専攻の歴史

化学専攻の創設・歴史

当化学専攻は昭和6年理学部創設とともに,当初5講座(研究室)で発足しましたが,その後,昭和34年の高分子科学科の新設, 平成8年の大学院重点化を経て,現在7大講座27研究グループを擁するまでに発展しています。

化学専攻の概要

化学とは物質科学の核心をなす学問であり,「物質の合成,構造,性質,並びに物質間の相互変換を研究する学問」と言えます。 当化学専攻は,わが国唯一の構造熱科学研究センター(旧分子熱力学研究センター)を含めて,無機化学分野5,物理化学分野6,有機化学分野5,及び学際化学分野(無機と有機化学に含まれる)の4基幹講座16研究グループと,付属研究所に所属する2協力講座9研究グループ,及び併任・連携協力講座の2研究グループで構成されています。その多彩な内容は化学の教育に必要な分野を網羅しており,研究の面でもそれぞれ先端的で国際的に水準の高い研究を活発に展開しています。また,卒業生は修士もしくは博士の学位取得後,多くの企業の研究所,全国の大学や国の研究機関の研究者として活躍しています。

理学部化学科(大学院理学研究科化学専攻)の歩み

1931年(昭和6年)5月1日 理学部の創設
1932年眞島利行、小竹無二雄が教授として着任、化学科が実質的に設置
1933年4月第一(眞島)、第二(小竹)、第三(教授仁田勇)、第四(教授千谷利三)の4講座で教育と研究が開始
1934年4月大阪市北区中之島4丁目に理学部本館が竣工
1935年6月槌田龍太郎を助教授として第五講座が新設
1939年赤堀四郎が眞島の後をうけて第一講座を担当
1940年わが国最初の高分子化学講座として第六講座(教授呉祐吉)が新設
1941年第七講座(コロイド学、教授佐多直康)が新設
1943年渡瀬が教授に昇格して第八講座(金属化学)が新設
1944年第九講座(重合化学、教授堤繁)が新設
1944年戦争激化にともない研究室の疎開が始まる
1945年終戦
1947年ほとんど全部の研究室が中之島へ復帰
1949年第八講座と第九講座が工学部応用化学科へ移管
1949年第八講座(水産化学、のち天然有機化学)を新設し、小竹が担当
1953年旧制度の最後の卒業生と新制度の第1回卒業生が同時に誕生 新制度発足とともに大学院も正式の課程となり、無機および物理化学専攻と有機化学専攻の二つが新設され、また生物学教室とまたがる形で生物化学専攻がおかれる
1958年放射化学講座(教授音在清輝)が教室外として新設
1960年放射化学講座が化学科に編入され、第九番目の講座となる
1961年第二室戸台風が理学部地階の各研究室に大きな被害をもたらす
1964年分析化学が独立した講座(教授池田重良)となる
1964― 豊中地区への移転がおこなわれる 新たに量子化学講座(教授千原秀昭)と有機反応機構論講座(教授村田一郎)が新設。高分子学科設置の際移管された第六第七講座を除き、化学教室は10講座の構成となった
1979年理学部附属化学熱学実験施設新設
1989年同上が改組になりミクロ熱研究センターとなる
1994年教養部解体に伴い、教養部化学の多くの教官が理学部所属となる
1996年理学部大学院重点化の流れの中で、化学科の大学院重点化なる。これまでの専攻が統合され、 化学専攻Aコース(無機及び物理化学)、Bコース(有機化学)になった
1999年理学部附属ミクロ熱研究センターが改組になり、大学院理学研究科附属分子熱力学研究センターとなる
2000年理学部G棟が完成し、理学部A,C棟にある研究室のほとんどの部分が移転
2009年大学院理学研究科附属分子熱力学研究センターが改組になり、大学院理学研究科附属構造熱科学研究センターとなる

大阪大学50年史部局史 第5章理学部 第4節化学科の総説より

1931(昭和6)年5月1日理学部の創設にともない、1932年眞島利行、小竹無二雄が教授として着任して化学科が実質的に設置された。翌1933年4月には第一(眞島)、第二(小竹)、第三(教授仁田勇)、第四(教授千谷利三)の4講座で教育と研究が開始された。1934年4月大阪市北区中之島4丁目に理学部本館が竣工するまでは、医学部、塩見理化学研究所等の建物の一部を使用していた。

1935年6月、イギリスから帰国した槌田龍太郎を助教授として第五講座が新設され、有機、物理化学、無機(分析)化学の講座が揃うことになった。分析化学の教育は助教授渡瀬武男が担当していた。第一講座は眞島の後をうけて1939年より教授赤堀四郎が担当した。

1937年、関西の産業の大きな基盤である繊維の研究の重要性に鑑み、財団法人繊維科学研究所の寄付によって研究室が増築され、ここに1940年、わが国最初の高分子化学講座として第六講座(教授呉祐吉)が新設された。この講座は翌年設置された第七講座(コロイド学、教授佐多直康)とともに、のちに高分子学科誕生の基幹講座となった。第二次世界大戦の激化とともに理工系の教育と教育が重視され、1943年には渡瀬が教授に昇格して第八講座(金属化学)が、また1944年には第九講座(重合化学)が新設された。第九講座は産業科学研究所教授から転じた堤繁が担当した。

1944年末ごろから、戦争の影響は深刻となり、大阪が爆撃される可能性に備えて、研究室ごとに地方分散が計画され、一部兵庫県の神戸女学院、岡山県津山、兵庫県市島、京都府宇治、富山県伏木・上市町、石川県能登、等に疎開して各地で研究室づくりを始めた。この計画は、1945年3月と5月に大阪市が大規模な爆撃によって全面的に破壊されるとともに促進された。理学部の建物は爆撃による損害を幸いにして免れたが、研究を続行できる状況ではなかった。

戦後もしばらくは疎開地において細々と研究活動は続けられたが、治安の回復にともない、教育上の配慮から、1947年にはほとんど全研究室が中之島へ復帰した。第二講座がその一部を移していた石川県の研究室は能登臨海実験所として残され、助教授金子武夫が運営したが、1948年に惜しくも火災で失われた。

戦後はあらゆる資材の調達難のなかで、不安定な電力とガスの供給に悩まされつつも、非常な熱意をもって急速に復興が達成された。各種の分光光度計やX線回折計などの新鋭の機器が設置され、中断していた諸外国との交流も徐々に再開された。この間1949年に第八講座と第九講座を教室の方針によって工学部応用化学科へ移管し、同年新しく第八講座(水産化学、のち天然有機化学)を新設し、小竹が担当した。

分析化学は渡瀬が教授に昇任した後、音在清輝が無機化学講座の助教授としてこれを担当し、長く半講座の扱いであった。これが独立した講座となるのは1964年であるがこの間1958年に放射化学講座が教室外として新設され音在が担当教授となった。この講座は1960年に化学科に編入され、第九番目の講座となった。

長年の懸案であった分析化学講座の設置は1964年に教授として東北大学から池田重良を迎えて実現した。しかし化学教室はすでに膨張した組織を収容する余裕はなく、放射化学講座はサイクロトロンの建物に間借りし、分析化学講座は実験室をもてない状況であった。たまたま1961年大阪を襲った第二室戸台風は理学部地階の各研究室に大きな被害をもたらし、これが直接の契機となって、移転の計画が急速に具体化した。豊中地区への移転は1964年から3年間にわたって順次行なわれ、研究室配置も再構成された。このとき同時に化学科の改組拡充計画が実現の運びとなり、新たに量子化学講座と有機反応機構論講座が新設され、前者は第三講座(物性物理化学講座と改称、教授関集三)の助教授から昇任した教授千原秀昭が担当し、後者は東北大学から招かれた教授村田一郎が担当した。高分子学科設置の際移管された第六第七講座を除き、化学教室は10講座の構成となった。

講座の変遷に関連して、1944年に物理学と化学の中間領域である物性学を振興する目的で、両学科が協議し、双方から1講座ずつ新設計画をもちよって物性学科を新設することが計画された。戦争末期の困難のため、学科の新設は認められなかったが、2講座の新設だけが実現し、これは物理学科所属とされた。

1933年第1回の入学生は12名であったが、1981年度の入学生は51名である。この間、戦争の影響で卒業期が12月や9月になったことがあったが(第7~13回生)、これは一時的に修学年限が3~6ヶ月短縮されたり(第7~10回生)、高校の短縮によるものであった。1949年からは学制の大幅な改革が行なわれ、このため、1953年に旧制度の最後の卒業生と新制度の第1回卒業生が同時に誕生した。新制度発足とともに大学院も正式の課程となり、無機および物理化学専攻と有機化学専攻の二つが新設され、また生物学教室とまたがる形で生物化学専攻がおかれた。大学院専攻が比較的細分化されたことは、研究所や教養部教官が積極的に大学院教育に参加したことと共に他大学と比較したときの特色ということができる。学部専門課程の教育は化学科と高分子学科の合同の形で行なわれている。教室の運営面においても両学科の協力態勢が確立している。

研究の面では常に第一線の指導的立場を保ち、諸外国との交流も盛んで、ほとんど毎年短期あるいは長期の客員滞在者が研究のために訪問している。眞島の文化勲章、仁田、赤堀の学士院賞と文化勲章受章、小竹、千谷、関、菅の学士院賞をはじめ多くの学会賞受賞者を出し、卒業生、在職者の中には化学会会長や国際機関の役員あるいは産業界の第一線で活躍している者が多数ある。化学科を母体として生まれた研究機関が二つある。一つは赤堀を中心とする蛋白質研究が発展してできた理学部附属蛋白質研究施設で、これは後に全国共同利用の蛋白質研究所となった。もう一つは関を中心とする熱物性の研究の発展から生まれた理学部附属化学熱学実験施設である(注:現構造熱科学研究センター)。

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