これまで,部分重水素化メチル基(–CH2D,–CHD2)が,低温固体中で配向秩序化する現象を様々な化合物について調べてきました.多くの場合,秩序化は温度低下とともに非協同的に進行し,3準位系のショットキー熱容量が観測されます.3準位の間隔は化合物ごとに異なり,大きいもので 3 meV 程度に達します.この3準位は,部分重水素化メチル基の3つの配向に対応するものですが,meV オーダーの大きなエネルギー差は,メチル基の回転モードだけでは説明できないものです.そこで今回は,メチル基の回転的振動以外の分子内振動にも注目して,各モードの振動数がメチル基の分子内配向にどのように依存するかを赤外吸収測定および量子化学計算で調べました.
ここでは,CH2DOHの結果を紹介します.この化合物の熱容量測定の結果は,既に昨年の本レポート(研究紹介1)で報告しています.α結晶相の過剰熱容量から得られたエネルギースキームは2準位系で(上の準位が2重縮重)エネルギー間隔は 870 µeV でした.
Fig. 1. Temperature evolution of the IR spectra obtained for CH2DOH in the spectral range 2100 – 2300 cm-1.
Fig. 1 に CH2DOH の赤外吸収測定の結果(波数域:2100 – 2300 cm-1)を示します.この波数域で観測されるのはメチル基(–CH2D)の C–D 伸縮振動です.複数の吸収ピークが観測されており,その強度が温度とともに様々に変化しているのがわかります.具体的には,2130 cm-1 から 2160 cm-1 のピーク群および 2195 cm-1 のピークが温度低下とともに強度が小さくなり,2187 cm-1 のピークおよび 2227 cm-1 から 2276 cm-1 のピーク群は温度低下とともに強度が大きくなっています.これは,昨年の本レポート(研究紹介8)で報告した2,6-ジクロロトルエンの結果と同種のもので,前者のピークは2準位のうち高いほうの準位に,後者は低いほうの準位に対応します.注目すべきは,異なる温度変化を示す吸収ピーク(すなわち異なるメチル基配向における振動励起)が異なる波数に現れている点です.分子内振動を調和振動で近似すると,ゼロ点エネルギー Ezero,vib は振動数 νvib を使って Ezero,vib = hνvib/2 と表すことができます.したがって Fig. 1 より,C–D 伸縮振動がメチル基配向ごとに異なるゼロ点エネルギーをもつことがわかります.例えば Fig. 1 で両端のピーク群に注目すると,2準位のうち高いほうの準位が低い方の準位より 100 cm-1 程度小さい波数域に観測されており,これはゼロ点エネルギー差にして Ezero,vib ~ −6.2 meV に相当します.系全体のゼロ点エネルギー差は各振動モードのゼロ点エネルギー差の総和で与えられるため,C–D 伸縮振動の負の寄与は他の分子内振動モードによって打ち消されたと考えられます.より詳細な解析には,全ての分子運動モードについて3つのメチル基配向における吸収ピークを同定し,そこから系全体のゼロ点エネルギーを算出する必要がありますが,Fig. 1 からも明らかなように,α相の赤外吸収スペクトルは複雑な構造をしており,全てのピークを同定することは大変困難です.そこで,別なアプローチとして,単分子の量子化学計算を行い,その基準振動解析からメチル基の配向が異なる3つのケースにおけるゼロ点エネルギーの算出を試みました.
Table 1. Frequencies of normal vibrations and zero-point energies of CH2DOH calculated by DFT method for a single molecule.
計算には密度汎関数法を用い,分子構造を最適化させた後,基準振動解析を行いました.最適化で得られた分子構造はα結晶相における構造とよく似たものでした.Table 1 に計算の結果を示します.分子内振動の振動数がメチル基配向ごとに少しずつ異なり,その結果としてゼロ点エネルギーにも差が生じていることがわかります.C–D 伸縮振動に対応する ν9 の波数は2つの等価な回転異性体がより低い値を示しており,赤外吸収測定の結果をよく再現しています.一方,計算から得られた系全体のゼロ点エネルギーは2つの等価な回転異性体がより高い値を示しており,熱容量から得られた結果とよく一致します.つまり,系全体のゼロ点エネルギーに対する C–D 伸縮振動の負の寄与は,確かに他の分子内振動モードによって打ち消されていたわけです.定量的には,計算から得られた系全体のゼロ点エネルギー差は 1869 µeV で,実測値(870 µeV)の2倍以上になりました.この違いには,計算の不確かさに加えて,分子間相互作用の影響(とりわけ OH 基が形成する水素結合ネットワークの影響)が表れていると考えられます.
赤外分光測定には,分析測定室の大濱光央氏に大変お世話になりました.
鈴木 晴,稲葉 章,第47回熱測定討論会(桐生),P36 (2011).
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