研究紹介 12

重水素化 EtMe3Sb[Pd(dmit)2]2 における
特異な励起構造

近年の磁性研究では,幾何学的フラストレーションに焦点を当てた研究が多く行われています. 正三角に近いスピン系では,強いスピンフラストレーションの影響により,長距離秩序が阻害され,spin singlet pair が組み変わりながら揺らぐ量子スピン液体と呼ばれる特殊な基底状態が実現する可能性があります. Spin singlet pair の組み変わりは超伝導における Cooper pair の形成とも関連があると指摘されており,量子スピン液体は固体物性における重要なテーマとして注目されています. しかしながら,量子スピン液体を実現している物質は非常に少なく,実験的な研究が不足しています.

アニオンラジカル塩 X[Pd(dmit)2]2 は,二量体を形成した Pd(dmit)2 分子(Fig. 1 inset)に S = 1/2 の電子スピンが局在する Mott 絶縁体の一種です. カチオン X と Pd(dmit)2 は分離積層型の結晶構造を形成し,二次元的な電子構造を持つため,低次元磁性体として注目されています. 多くの X[Pd(dmit)2]2 塩では電子スピン間に働く強い反強磁性相互作用により,反強磁性秩序が実現します. 一方,EtMe3Sb[Pd(dmit)2]2 では二量体間の相互作用の比が三角格子的であるため,幾何学的フラストレーションの効果により,極低温まで秩序化せず,量子スピン液体が実現します. このような特性を持つ物質は非常に少なく,稀有な量子スピン液体物質として,強い注目を集めています. これまで我々が行ってきた,この物質の極低温熱容量測定では,他の絶縁体では見られないバルク的なギャップレス励起や 3.7 K 近傍にブロードな熱異常が存在することを発見してきました. こうした量子スピン液体の熱力学的な性質は高い注目を集めています. しかし,その一方で,正三角からずれた電子構造の影響や 1 K 以下に存在する量子スピン液体とは直接関係のない大きな熱容量など未解明な部分も多く存在します.

今回我々は,カチオン EtMe3Sb+ の Me 基中の水素を重水素に置換した新たな量子スピン液体物質 Et(CD3)3Sb[Pd(dmit)2]2 の極低温熱容量を精密に測定し,カチオン修飾による量子スピン液体への影響と 1 K 以下の大きな熱容量の起源を追及しました.

Fig. 1 Fig.1. The temperature dependence of CpT -1 of the pristine sample (EtMe3Sb[Pd(dmit)2]2: red square) and the deuterated sample (Et(CD3)3Sb[Pd(dmit)2]2: light green circle). The high value of CpT -1 seen in the pristine sample was suppressed in the deuterated sample.

Fig. 2 Fig.2. TheCpT -1 vs T 2 plot of the pristine sample (EtMe3Sb[Pd(dmit)2]2) and the deuterated sample (Et(CD3)3Sb[Pd(dmit)2]2). In spite of similar behavior of heat capacities higher than 2 K (4 K2), the significant difference was observed below this temperature. This difference considered as due to anomalous enhancement of electronic heat capacity related to quantum critical behavior.

Fig. 1 は,EtMe3Sb[Pd(dmit)2]2(以下,H 体)の熱容量とカチオンを重水素置換した Et(CD3)3Sb[Pd(dmit)2]2(以下,D 体)の低温熱容量の温度依存性を対数プロットしたものです. Fig. 1 に示すように,H体では 1 K 以下で熱容量が大きく増大し,非常に大きな熱容量が観測されましたが,重水素置換体ではそのような大きな上昇は観測されませんでした. これより,H 体で観測された巨大な熱容量が Me 基の水素に由来しているものであると理解できます. また,大きな熱容量の上昇が抑制されたため,D 体ではより精密な電子熱容量の議論が期待できます. Fig. 2 は,H 体と D 体の熱容量を電子熱容量の議論がしやすいように,CpT -1 vs T 2 プロットで表したものです. 両物質の熱容量は,おおよそ2 K(4 K2)以上では,よく一致しています. これは,両物質の格子熱容量およびギャップレスな励起を示す熱容量 T-linear 項の寄与が近く,基本的な物性には変化がなく,同様の量子スピン液体が実現していることを意味しています. 一方,これより低温では D 体の熱容量は温度の低下に伴い緩やかに増加していく様子が見られました. H 体で見られた水素の熱容量が高温側にシフトした可能性も考えられますが,熱容量が磁場で大きく抑制される H 体の挙動とは異なり,磁場にほとんど依存しないことから,その他の寄与である可能性が高いと考えられます. また,磁場に対しての挙動から,磁性不純物も非常に少ないと考えられます. このような挙動は理論的にも予測されておらず,その詳細については未だわかっていませんが,現在,我々はこのような現象が,量子スピン液体の近傍に量子臨界点が存在する兆候であると考えています. 量子スピン液体には,秩序化温度を持たないため,隣接する反強磁性秩序相との相境界において,絶対零度での転移現象である量子臨界現象が存在する可能性があります. しかし,実際に量子スピン液体においてそのような兆候を捕らえた例はこれまでになく,また,理論的にも未確定な問題です. このため,本研究で得られた量子スピン液体近傍における量子臨界点の可能性は,40年以上未解明の問題として研究されてきた量子スピン液体を解明する重要な結果であると考えられます. 我々は,現在,この量子臨界点の可能性についてさらなる研究を進めています.

(山下智史,中澤康浩)

発 表

S. Yamashita, T. Yamamoto, Y. Nakazawa, M. Tamura, and R. Kato, Nature Commun. 2, 275 (2011).

Copyright © Research Center for Structural Thermodynamics, Graduate School of Science, Osaka University. All rights reserved.