電荷移動錯体は有機分子であるドナー分子,アクセプター分子とカウンターイオンを組み合わせた物質群で,多くの場合,いわゆる強相関電子系と呼ばれる電子系を形成します.また,ドナー分子・アクセプター分子は,平面的な構造を持つことが多いため,結晶格子中に積層して配列し,1次元,2次元系をつくります.このため,電荷移動錯体は理想的な低次元電子系を形成する電子系としても注目されています.これらの物質は,かさ高い分子により構成された乱れの少ない結晶構造をもち,分子やカウンターイオンの制御による細かな物性コントロールが可能であるなど,実験研究を行う場合においても非常に良い特性をも持っています.
ドナー分子とカウンターイオンの比が 2 : 1 で構成される電荷移動錯体(D2X)には,10 K 級の有機超伝導物質 κ-(BEDT-TTF)2Cu(NCS) 塩など,興味深い物性を示す物質が多く存在します.κ-型や β-型と呼ばれる D2X 塩の一部の結晶構造では,ドナー分子がダイマーを形成し,effectively half-filled とよばれるバンド構造をとります.ダイマー化が非常に強い場合などに,低温でダイマーに電子スピンが局在する Mott 絶縁体状態が実現することがあります.
Fig. 1. Crystal structure of (BPDT-TTF)2ICl2.
今回我々は,ドナー分子が BPDT-TTF である電荷移動錯体 (BPDT-TTF)2ICl2(以下,ICl2 塩)の電子物性に注目しました.BPDT-TTF 分子(Fig. 1)は,BEDT-TTF 分子よりも面間での相互作用が強いため,(BPDT-TTF)2X 塩は (BEDT-TTF)2X 塩よりも次元性の低い一次元的な電子構造を持ちます.また,結晶中において,BPDT-TTF 分子は強くダイマー化しており,局在スピンの特徴が強く現れた Mott 絶縁体系となることが期待されます.今回注目したICl2塩の類似塩である,I3,IBr2 塩では 50 K,40 K でスピンパイエルス転移が磁化率測定や ESR などにより観測されています.このスピンパイエルス転移は超格子の形成を伴う非磁性転移ですが,熱力学的な検証はあまり行われてきませんでした.これが難しい理由としては,大きな格子変調を伴うようなドラスティックな転移ではなく,かつ,転移温度が高いため格子熱容量の寄与が大きく転移現象が正確に評価しにくいという点があげられます.今回我々は,上述の2つの塩の傾向から,アニオンサイズを小さくすることで,転移温度が低くなり,検出に有利になると考え,緩和法,チップカロリメータを用いた ICl2 塩の熱異常の検出およびその挙動の評価に取り組みました.
Fig. 2. Heat capacity of (BPDT-TTF)2ICl2 measured by AC calorimetry. Inset shows magnetic susceptibility under 1, 3 and 5 T. The broad anomaly of heat capacity is associated with the spin-Peierls transition appeared as the decrease of magnetic susceptibility around 25 K.
Fig. 3. Heat capacity of (BPDT-TTF)2ICl2 measured by relaxation technique.
Fig. 2 に交流法により測定した,(BPDT-TTF)2ICl2 塩の熱容量の温度依存性を示します.交流法熱容量測定では,非常にブロードですが,25 K 付近に熱異常を確認することができました.この結果は Fig. 2(inset)に示した磁化率測定で見られた常磁性から非磁性への落ち込みとよく一致しているため,スピンパイエルス転移に対応すると考えられます.Fig. 3 には,緩和法熱容量測定の結果を示しました.この測定では,先ほどの交流法の結果とは異なり,はっきりとした転移挙動は観測できませんでした.これは,マイクロチップカロリメータによる交流法熱容量測定が高い温度領域でも高い精度を持っているということを示すとともに,本物質系のスピンパイエルス転移の熱力学的な変化が非常に緩やかで小さい変化であることを示しています.本来,スピンパイエルス転移は,非磁性転移であるため,ダイマーに局在した S = 1/2 のスピンエントロピーである Rln2 オーダーの転移エントロピーが観測されることが考えられます.しかし,今回の結果から,(BPDT-TTF)2ICl2 塩における転移エントロピーは予想値よりもはるかに小さく,Rln2 の1 ~ 数 %程度以下であると考えられます.当研究室では,ダイマー Mott 絶縁体系において,反強磁性転移に伴う熱異常が非常にブロードかつ,微小になることを報告してきました.反強磁性転移とスピンパイエルス転移の違いはありますが,我々は電子状態の転移に伴う熱力学的な変化が非常に小さくなることはダイマー Mott 絶縁体系の特徴ではないかと考えています.かさ高い有機分子によって電子サイトが構成されるダイマー Mott 絶縁体と電子サイトが小さい無機物質との電子挙動の違いは,今後の有機伝導体の研究においても非常に重要であるため,今後も,ICl2 塩および関連物質の低温での熱力学的な挙動を詳細に調べ,転移によって生じるエネルギーギャップ,格子熱容量,外場印加による影響の評価などを行っていく予定です.
G. Y. Guan, Y. Muraoka, T. Yamamoto, and Y. Nakazawa, IUPAC 7th International Conference on Novel Materials and Synthesis & 21st International Symposium on Fine Chemistry and Functional Polymers (Shanghai, China), H12 (2011).
关 国旸,村岡佑樹,中澤康浩,第47回熱測定討論会(桐生),3B1340 (2011).